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【連載小説】 硫黄島ダイアリー 第六章『地球映画館』2話

筆者三辻孝明さんは、一昨年の2019年8月に癌の告知を受けました。以後、自然療法や抗癌剤治療を経て癌の摘出手術を受けるなど、その約10ヶ月間、「静かに死を見つめながら、久しぶりに文章を残すことができました」と話しています。また「レポートに毛の生えたようなものですが、過去の自分自身の経験を形にできたことは、少し肩の荷が降りたような気持ちです。よろしければ、ご一読ください」と語っていました。

そして、2020年7月16日に当「硫黄島ダイアリー」の連鎖がスタートすることになりましたが、翌月の8月10日、残念ながら三辻孝明さんは帰らぬ人となってしまいました。

闘病生活中に死を見つめながら書き上げられた当連載「硫黄島ダイアリー」ですが、生前の故人の遺志を受け継ぎ、パースエクスプレスでは連載を継続掲載致します。読者やユーザーの皆様には、引き続き「硫黄島ダイアリー」をご愛読頂けると幸いです。

<第六章『地球映画館』1話はこちらから>
 
 

 
【連載小説】

硫黄島ダイアリー

三辻孝明

 

第六章『地球映画館』2話


 
 木枯らしが吹き始めた午後だった。その日、ローズマリーは寄り道をして、公園の梅の木に向かっていた。シャロンの入院したニューキャッスルの病院には、ほとんど毎日手紙を出しているけれど、今日まで彼女からの返事は届いていない。ローズマリーには、彼女の考えていることが分かっていた。

「彼女は私からは離れていこうとしている。私が勇気を持って生きていけるように、彼女の影を私から消してしまおうとしている。」

 彼女の命が消えようとしている。

 どうして、それが彼女の上に起こってしまったの?例えば、結城のような人には、神様はシャロンに与えたような試練は与えない、それはどうして?神は越えられない試練は決して与えない、確かにそう聖書にも書いてある。でも、もしも彼女が病気に負けて亡くなってしまうようなことになったら、それでも越えられない試練は与えないということの証明になるの?

 あの日、ホテルの部屋を出たローズマリーを待っていたのは、やくざではなく麻布署の刑事たちだった。彼女は彼らに保護され、東京に戻った後、数日して集中治療を受けているシャロンを信濃町の慶應病院に見舞った。ガラス窓の向こうの彼女と言葉を交わすことは、最後までできなかった。その翌週に、何の前触れもなくシャロンは大使館の手配で緊急帰国してしまった。

 あれから3ヵ月が過ぎ、冬の足音が聞こえ、古川先生の容態も悪くなる一方で、ローズマリー自身も先生の最後を見届けたらオーストラリアに帰ろうと考えるようになっていた。勢いと若さと冒険心でここまで来てしまったけれども、シャロンを失った今、ローズマリーは立ち止まって考え始めている自分に気付いていた。もう何かが起きるのを期待して、このまま外国で日々を過ごす場合でないことだけは分かっているつもりだった。だから、彼女がその日の午後、有栖川公園の梅の木にあるベンチに向かっていたのは、シャロンとのたくさんの思い出の中に帰りたいという感傷からだけではなく、もう一度、冷静に自分自身の進退を考えなければならないと感じていたからだった。

********

 午後の柔らかい日差しの向こうに、ベンチのタカがこちらに向かって手を振っている。どうして彼が今、ここにいるのだろう?

「ここに来れば会えるような気がして。」

 あの事件以来、お互いに連絡を取ったことはなかったから、タカが有栖川公園にいること自体が想像の外だった。

 「ドウシテ?」
 「警察からあなたに近づいてはいけないと言われているのです。だから、あなたにもシャロンにも連絡することができませんでした。相変わらずあなたたちの連絡先や住所も知らないままだし。でも、無事で良かった。警察があなたを保護したらしいことは、それとなく分かっていましたが、こうして元気そうにしているのを見ると、やはりうれしいです。」

 目の前のタカは少し会わない間にちょっと大人になって見えた。人里離れた湖のように、静かだけれども温もりからは遠い目をしていた。そして、その瞳の中に傷ついた心の波紋が広がって見えた。ローズマリーはその瞳を知っていた。彼女は、これまでに何度その瞳を鏡の中の自分自身に見出したことだろう。施設で育った思春期に、水泳部のキャプテンに棄てられた日に、あの雨の夜の三田のアパートの鏡の中に、数え上げたら切りがなかった。

「どうしても話しておきたいことがあって、今日、ここで待たせてもらいました。」
「タイセツナハナシ?」
「ええ、僕の勝手な思い違いでなかったら。」

 タカの話とは、鷹匠のことだった。

「タカジョウ?」
「鷹を手なずけて狩猟をする人たちのことです。江戸時代までは、鷹狩りをする鷹匠はあちこちにいたようです。九州で仕事をしていた時に、その鷹匠の末裔と名乗る人と知り合いました。そして、よかったらこっちに来ていっしょに鷹匠をしないかと誘われたんです。」
「タカガリヲ、キュウシュウデスルノ?」
「ええ、鷹狩りをマスターするために九州に行こうかと思っています。」

 そして、タカは彼の夢を話し始めた。鷹匠になった後、彼はオーストラリアに渡るつもりだと言う。

「僕は、この年まで本当の友情と呼べるものを知りませんでした。けれども、今回の事件を通して、人の大切さ、そして自分自身の命の大切さを学ぶことができました。島にいる斉藤、刑事だった珍蔵さん、そして、何よりもあなたとシャロンさんと知り合えたことで、それが見えたのです。あなたたちの嘘のない、ひたむきな生き方に憧れを覚えたのです。自分もあんな風に自由に生きてみたい。過去ばかり振り返って、ため息ばかりついているのは、もうよそうって。あなたたちの育った国、オーストラリアに興味を持ったのは、だから僕にとっては自然なことなのです。山中さんも言っていました、環境が100%人の性格を形作るって。山中さんは、島にいた大学の先生のことです。」

 そして、忘れられようとしている古いワイナリーの話を、耳にしたのだという。彼は、すでに三田の大使館に移民のための永住権取得の申請を出しているのだそうだった。

「シャロンガ、イレバ、テツダッテモラエタノニ。」
「先週、大使館でインタビューを受けました。僕はそこで、移民してワイナリーで暮らしたいこと、鷹匠のこと、そしてかけがえのない友達であるあなたたちのことを話しました。」
「ダレト、インタビューシタ?」
「サイモンさんです。男性の方でした。」
「サイモン、ワタシタチモ、ナカイイヨ。」
「ええ、サイモンさんもそのように話してくれました。そして、2、3ヵ月待つようにと言われました。あと、マーガレットリバーは彼の生まれたパースの街から遠くないことも。」

 西オーストラリア州の州都に近いマーガレットリバーは、19世紀の当時、入植者がバラバラで、大手の資本が入らなかったために、樹齢100年を越える小規模のヴィンヤードが現在でも多く散在している。個人経営の小さなワイナリーの中には後継者のいないところも多く、年寄り夫婦が所有している葡萄畑を棄てるに棄てられずにいるところも少なくないそうだ。

「ソレデドウシテ、タカヲツレテイクノ?」
「同じ質問をサイモンさんからもされました。鷹を連れて行くのは、僕自身が寂しくないためというのがあります。鷹匠と鷹の関係は血を分けた肉親そのものと聞いていますから。でも、本当の理由は、鷹に野うさぎを取ってもらうためなのです。実はこれも鷹匠の方のアイデアなのですが。ブドウ畑の天敵は、幹を食い荒らす野うさぎなのです。野うさぎの被害にあわないために、今は罠を仕掛けたり、毒薬を撒まいたりいろいろな手を打っているそうです。僕はそういうやり方ではなくて、僕の鷹に野うさぎを捕ってもらいたいのです。鷹は普通、暗い部屋に何日も置いておきます。その鷹を野うさぎの活動する早朝にブドウ畑に放すのです。」

 そして、捕まえたうさぎの皮をはぎ、売り物にはならない赤ワインの樽に、うさぎの肉が硬くなる前に漬けてしまうのだそうだ。

「ヴィンヤードの冬は、葡萄の木の背が低いこともあり、木枯らしが吹き抜けて、普通の森とは比べ物にならないくらい厳しいと聞いています。でも、葡萄をつぶし、大きい木樽にイースト菌と一緒に詰めて、煉瓦の貯蔵庫に置いておくと、長い冬の間に発酵し、その樽たちが熱を出すことによって、貯蔵庫の中全体がやわらかい暖かさに包まれるのだそうです。これはまだ体験したわけではありませんが、ヴィンヤードの解説本にそう書いてありました。僕はそこで、日がな本を読みます。ワインが発酵する熱に温められながら、夜はそこで寝てしまうかもしれません。そして、誰かが訪ねてくれたら、ワインの香りのするうさぎの肉をオリーブの葉と料理して、ご馳走するのです。もちろん、家の周りの採れたての野菜を添えることも忘れません。」
「ヤサイモ、タカジョウデ、マモルノ?」
「レタスなどの葉の天敵はナメクジやカタツムリだそうです。ナメクジやカタツムリを駆除するためにはアヒルが良いということです。これも本からの知識ですが。それでアヒルが散歩できる道さえ作っておけば、彼らは毎朝野菜畑の間をパトロールして、ナメクジやカタツムリを食べてくれることになります。同じように油虫にはてんとう虫が、土を耕すにはミミズが有効なのです。」

 そうやって年老いた葡萄の木に囲まれながら、パーマカルチャーを続けて四季を過ごす生活をすることを、サイモンにも話したのだという。

「ドウシテ、パーマカルチャーナノ?」
「自然界には自然界のルールがあり、僕たち人間が関わらない太古の昔から、そのルールに沿って、生き物の秩序が保たれています。ですから、できるだけそのルールに従って、その中で自然から学んでいきたいと思うのです。硫黄島のような何もかも焼き払われてしまった島には、あれから45年以上たった今も、まともな生き物はほとんど見られません。人を呼び寄せるような深い木陰もなければ、鳥のさえずりも聞こえません。あるのは蛇のように地面に這いつくばる気味の悪い植物と、巨大な昆虫、それに昼日向からさまよう幽霊だけです。あの島は私たちの未来を象徴しています。私たちがこのまま進んで行くと、きっと遠い将来、私たちの周りもだいたいあんな風になってしまう気がするのです。でも、だからといって政治運動をしたり、都会に住みながら原発に反対するだけでは、十分じゃない気がします。どんどん過ぎていってしまう時間が、もったいない気がするのです。それで、自分ひとりでもコツコツできそうで、そして将来、その足跡が後から続く人のメッセージにもなるようなことをと考えた時、パーマカルチャーと有機農法に出会うことができたのです。シャロンを知ってから、真剣に自分の人生を、与えられた時間のことを考えるようになりました。彼女の分までがんばろうとかそういう意味ではありません。自分が生まれてきた意義、MISSIONのことを考えるようになったのです。」
「MISSION?」
「ええ、このMISSIONは、僕だけのものではありません。あなたも含まれていると信じています。」
「ステキナ、ユメネ。」
「夢で終わらせるつもりで話したわけではありません。いつかその葡萄畑をきっと訪ねてください。そこでずっとあなたを待ちながら暮らしていますから。」

 ローズマリーは彼女への気持ちを告白する無防備な彼のその瞳に、忘れようとしていた自分自身の過去を見ていた。

「そう、もう一度、はじめから、怖がらずに、何かに妥協することなく、真っ白なキャンパスに向かうように、自分を吐き出していくのよ。それを勇気と呼ぶんじゃない?ローズ、怖がっちゃだめ。あなたが自分を信じさえすれば、あなたの未来は永久にあなたのものなんだわ。」

 微笑みながらそう話すシャロンの声が、今はっきりとよみがえる。

 彼はバックパックからポットを取り出すとコーヒーを入れた。手の中の湯気の上がるアルミのコップから、彼の暖かさが確かに伝わる。胸にしみる冷たい冬の空気を感じながら空を仰いだ。

「デモ、イマ、レンアイハ、デキナイ。」

 ローズマリーは、けれども彼に温かい言葉を返すことができなかった。彼の言葉が響かなかったわけではないのに、彼女は恋愛をするつもりはない、とそれだけを断言した。それが本当に伝えたかった言葉でなんかないのに、彼女はその後、長い間黙りこんでしまった。

「本、届けたんですよね?」

 気がつくとタカが立ち上がっている。

「センセイ、ホンノコト、トテモヨロコンデイマシタヨ。」

 タカはうなづきながら、良かったとつぶやいた。そして、少し微笑んで見せた。

 タカとはそのまま広尾の交差点で別れた。彼の夢から逃れるように結局、ローズマリーは夢中で自転車のペダルを踏み続けた。線路沿いの道まで戻ると、空が開けて夕焼けが広がっている。葉の落ちた枝だけの木の上にカラスが並んでこちらを見ている。人生の終わりを、死を思わせる寂しい景色だった。

 アパートの前の灰色のアスファルトの上に自転車を停める。息はいつまでも上がって戻ることがないように思えた。
 

<第六章『地球映画館』3話へ続く>


 

三辻 孝明(みつじたかあき)
「CUBE IT AUSTRALIA」のCEO(最高経営責任者)。早稲田大学人間科学部環境科学科卒業。1989年より豪州在住。2020年8月10日永眠。

 
 
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