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【連載小説】 硫黄島ダイアリー 第五章『ベイサイドクラブ』5話

筆者三辻孝明さんは、一昨年の2019年8月に癌の告知を受けました。以後、自然療法や抗癌剤治療を経て癌の摘出手術を受けるなど、その約10ヶ月間、「静かに死を見つめながら、久しぶりに文章を残すことができました」と話しています。また「レポートに毛の生えたようなものですが、過去の自分自身の経験を形にできたことは、少し肩の荷が降りたような気持ちです。よろしければ、ご一読ください」と語っていました。

そして、2020年7月16日に当「硫黄島ダイアリー」の連鎖がスタートすることになりましたが、翌月の8月10日、残念ながら三辻孝明さんは帰らぬ人となってしまいました。

闘病生活中に死を見つめながら書き上げられた当連載「硫黄島ダイアリー」ですが、生前の故人の遺志を受け継ぎ、パースエクスプレスでは連載を継続掲載致します。読者やユーザーの皆様には、引き続き「硫黄島ダイアリー」をご愛読頂けると幸いです。

<第五章『ベイサイドクラブ』4話はこちらから>
 
 

 
【連載小説】

硫黄島ダイアリー

三辻孝明

 

第五章『ベイサイドクラブ』5話


 
 ワゴン車の中の男たちが、座ったままフロントガラスの向こうを凝視している。その景色の真ん中には桟橋があり、その上に外人の女を連れた三辻孝明が映っている。エンジンを切ったままの車内に傍受する警察無線の音声が流れる。その時、助手席の男が低く舌打ちをした。

「チッ、あのガキ、どうする?」

 運転席の角刈りの若い男が応える。

「とにかく、このままじゃやばいっすよ。」
「さらうか?」
「そうするしかないっすよ、もう時間もないし」

********

 夜になっていた。あたりが暗くはなっていても、桟橋に身を隠すところは見当たらなかった。街路灯が歩道の上を照らし出し、その上に野宿するなどはありえないことだった。あいつはどうしてもSALUTEの係留場所の近くをと考えていたようだが、私はかえってベイサイドクラブにいるほうが目立たないのではないかと考え始めていた。人通りのないところにいるほど、人目につくことはないからだ。誰かを見張るのならなおさら人ごみの中にいるに越したことはなかった。

 意見が分かれたけれど、私たちはとりあえずクラブに戻ることにした。歩いてきた桟橋を戻りながら「長い一日」とあいつがつぶやいている。ほんとうに長い一日だった。大使館を抜け出したことが、まるで数日前のことのようにも思える。風のない蒸し暑い夜だった。都心は今日もモンスーンの熱帯夜なのだろうか。

 そのとき、桟橋の入り口をふさぐように2つの人影が目に入った。ある程度は覚悟していたつもりでも、現実に目の前の男たちを見た時にはさすがにひざが震えた。最初のチンピラの方に見覚えはなかった。後ろのもう一人は、麻布署の机の上に置いてあった写真の人物、硫黄島でタカと相部屋だったという山城珍蔵に違いなかった。

「久しぶりだな、三辻。」

 街路灯に浮かび上がる珍蔵の顔は冷たく笑っていた。

 やがて2人をさらったワゴン車は夜の街を走りぬけていく。傍受している警察無線の音声だけが暗い車内に鳴り続けている。山下公園を過ぎ、どこかのホテルの駐車場の入り口が見えてくる。車はそのまま背の低い入口に侵入するとコンクリートの壁に沿って急な坂を下り始める。灰色の壁と低い天井、ヘッドライトがスパイラルを描いて狭い坂道を下っていく。珍蔵に聞きたいことは山ほどあるはずなのに、僕は言葉が出てこない。このまま殺されてもおかしくないと思っているうちに、ワゴン車は下っていく回転運動を停止した。

「降りろ。」

 B5、地下5階というサインボードが見える。あたりに人の気配はない。低い天井にペンキの剥げ落ちた配管が這い回っている。後部のドアをふさいで座っていた珍蔵が先に車の外に出る。僕とシャロンの順でそれに従う。エアコンをつけたままのエンジンの音がまわりの壁に跳ね返って響いている。

「すぐに済ませる。」

 車内にそう言い残すと珍蔵はスライデイングドアを勢いよく閉めた。

「1120号室だ。」

 珍蔵はエレベーターと書かれた通路を目で示した。

「いいか、おまえの女はひとりだ、そこでおとなしくしていろ。」

********

 ワゴン車が見えなくなった瞬間、私は息ができないほどの恐怖を感じた。この広い駐車場のどこかで必ず銃口がのぞいている。私たちを車から降ろすだけなら地下5階まで降りる必要は全くない。途中の階には人影があったのだから、彼らにとっては都合が悪かったに違いない。しかも私たちを監禁する必要があるのなら、上の部屋までついてくるはずなのに、私たちだけを無人の駐車場に置き去りにして帰ってしまう。

 エレベーターが低いモーターの音を響かせて近づいてくる。扉が開こうとしている。箱の中には別の殺し屋が立っている。そして、顔の正面に両手で銃を構えて私たちにとどめを刺そうとしている。私はもう目を開けていることすらできない。ついにエレベーターの開く音が聞こえる。中から銃に弾奏を装てんする金属の音が確かに聞こえてくる。そして、次の瞬間マシンガンの方向から男の低い声が続いた。

「すみませんがお客さん、ちょっと通してもらえますか?」

 目を開けると清掃用の台車を押した男が頭を下げて薄笑いを浮かべている。

********

 突然ドアがノックされた。今頃、誰なのだろう?誰も来ない部屋に3日もいたのだから、思わず身構えてしまうのも仕方がないことだった。ここに連れてきた警察の人だろうか?それとも彼らが約束してくれた通り、もう全てが終わったのだろうか?ローズマリーはドアに近づくと息をつめて廊下の様子をうかがった。しばらくそうしていたが物音は、それっきり何もきこえなくなった。

「まさか、騙されたんじゃないでしょうね。」

 部屋の中に戻ろうとしたときだった。ドアの向こうで聞き覚えのあるシャロンの話し声が確かにしたのだった。

********

 ローズがドアから顔を出したときの気持ちを、なんと表現したらいいのだろう。ひざから力が抜けていく感覚。現実なのか想像の世界なのかが分からなくなっていく感覚。でも、抱きしめる彼女の体温から夢ではないことが伝わり、彼女がここ数日警察に保護されていたことを知って、私はどっと疲れを感じてしまった。もうそのことを検証する力は残っていなかった。バスルームでシャワーを使い、部屋に戻って空いていた方のベッドに潜り込み、2人がキヨシと古川先生の話を始めているのを横で聞いていたのが最後だった。私は、バスローブに体を包んだまま気を失うようにして深い闇の中に落ちて行った。

 シャロンは静かな寝息を立てている。僕は部屋の明かりを落として、インスタントコーヒーを飲んでいた。窓の外には横浜港の夜景が音もなく瞬いている。彼女の話が真実ならローズマリーをこの部屋に監禁したのは、警察の手引きによるものに違いなかった。だとすると珍蔵もさっきのワゴン車にいたやくざ風の男もみな刑事ということになる。僕はローズマリーのベッドに彼女と並んで腰掛けた。

 そして『草枕』をバックパックから取り出した。ローズマリーが息をのむのがわかった。彼女は口を押さえたまま僕を見つめている。

「これがさっき話した島から持ち帰った本です。雪絵先生から出征の決まった日にキヨシ少年に贈られた本です。こんな時にあなたを驚かすつもりはありません。でも、キヨシ少年は生きています。いえ、正確には死に切れていません。たぶん雪絵先生との約束を守りたい一心なのだと思います。何度も彼の夢を見ました。自分の生い立ちから始まり、どのようにして命を失ったのかをきちんと説明してくれました。それと直接会う機会もありました。最後はシャロンが訪ねてきた晩のことです。七夕の頃でした。」
「クリクリアタマ?」
「ええ、坊ずっくりの小柄な男の子です。」
「ユキエセンセイ、イマビョウインニイマス。」
「そのことは今日シャロンから聞きました。キヨシはこの本の中に住んでいます。あなたがこの本を雪絵先生のところに持って行きさえすれば、きっとふたりは再会を果たせると思います。」
「サイカイ?」
「もう一度会えるということです。」

 話しながら僕は、斉藤からキヨシのことを頼まれたあのトラックの荷台の夕方を思い出していた。あの日の斉藤も、ちょうど今の自分のように、真剣そのものだった。

「ワカリマシタ。」

 彼女は震える指で表紙をなぞった。そして最後にひとつ質問してもいいですかと前置きをしてから、話し始めた。

「ドウシテ、アナタハ、ホンヲ、モッテカエッテキタ?」
「斉藤に頼まれたことがきっかけでした。それと斉藤には家族が、親や兄弟がいなかったのです。小さいときから独りでやりくりして、大人になったと話していました。実は僕自身も、母子家庭で育ったのです。父は基地で働いていたアメリカ兵だと聞いています。僕にも兄弟はいなかったし、父の顔を見た記憶もありません。だから斉藤の話しを聞いていて、他人事とは思えなかったのです。」
「オカアサンハ?」
「母は、僕が高校を卒業した年に、事故で亡くなりました。」
「デハ、イマノアナタモ、サイトウサンノヨウニ、ヒトリナノ?」
「ええ、独りです。一度結婚しましたが、慣れないことなんてするものじゃないですね。家庭の温かさとか、人を思いやる気持ちとかが、僕には欠けていたのだと思います。それが人と違う生い立ちが原因だとは思いたくないですけれど、結局、うまくはいきませんでした。だから、おっしゃる通り今は独りだし、きっとずっと独りです。」

 ローズマリーの静かな瞳が、まっすぐにこちらを見ている。

「ソウイウキモチ、タブン、ワタシニモワカリマス。」
「よしましょう、こんな話。とにかく僕の役目はここまでです。この本を持っていたのは斉藤という硫黄島の鹿島建設寮の3号室に住んでいる男の子です。斉藤は、この本は米軍が戦争資料館に贈呈したものだといっていました。その子から僕が預かって今あなたに渡しているのです。本を託された人はもう一人いて、それはキヨシと一緒に戦死したアメリカ海兵隊の若い衛生兵です。」
 

<第五章『ベイサイドクラブ』6話へ続く>


 

三辻 孝明(みつじたかあき)
「CUBE IT AUSTRALIA」のCEO(最高経営責任者)。早稲田大学人間科学部環境科学科卒業。1989年より豪州在住。2020年8月10日永眠。

 
 
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