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【連載小説】 硫黄島ダイアリー 第五章『ベイサイドクラブ』6話

筆者三辻孝明さんは、一昨年の2019年8月に癌の告知を受けました。以後、自然療法や抗癌剤治療を経て癌の摘出手術を受けるなど、その約10ヶ月間、「静かに死を見つめながら、久しぶりに文章を残すことができました」と話しています。また「レポートに毛の生えたようなものですが、過去の自分自身の経験を形にできたことは、少し肩の荷が降りたような気持ちです。よろしければ、ご一読ください」と語っていました。

そして、2020年7月16日に当「硫黄島ダイアリー」の連鎖がスタートすることになりましたが、翌月の8月10日、残念ながら三辻孝明さんは帰らぬ人となってしまいました。

闘病生活中に死を見つめながら書き上げられた当連載「硫黄島ダイアリー」ですが、生前の故人の遺志を受け継ぎ、パースエクスプレスでは連載を継続掲載致します。読者やユーザーの皆様には、引き続き「硫黄島ダイアリー」をご愛読頂けると幸いです。

<第五章『ベイサイドクラブ』5話はこちらから>
 
 

 
【連載小説】

硫黄島ダイアリー

三辻孝明

 

第五章『ベイサイドクラブ』6話


 
 珍蔵が結城を連れて部屋に入ってきたのは、その晩の明け方近くのことだった。珍蔵の後ろから影のように入ってきた結城を見た瞬間、ローズマリーの顔が凍りつくのがわかった。だから、僕はそのとき珍蔵と一緒にいる男が結城であることを確信した。そして珍蔵はローズマリーが考えていたような、警察の刑事ではなかったし、結城は記憶していたよりも小柄で、海で生活していたくせに色白で首のないがっしりとした体をしていた。これは考えられる最悪のシナリオが現実になったことを意味していた。

「なんだこの兄ちゃんは?」

 結城が珍蔵に僕のことを聞いている。

「アニキ、島で一緒だったガキっすよ。」
「島って、あそこか。お前の行ってた硫黄島か。」

 結城はポケットに両手を突っ込んだまま、薄笑いを浮かべて近づいてきた。

「おおローズ、久しぶりやなあ。元気にしてたか?」

 ローズマリーは目を伏せたまま黙っている。

「なんだ、水臭いアマやな。もう他人の仲やないやないか?ほら、顔上げて見せや?」

 そのとき奥のベッドに寝ていたシャロンが寝返りを打った。そして、小さく何か寝言をつぶやいた。

「なんだ、シャロンのアネゴも一緒かいな?」
「兄貴、約束通りスケは2人とも集めときましたから、先急ぎましょう。」

 結城にへつらっている珍蔵の声は、たぶんこれまでの人生で耳にしたどの言葉よりも、醜い響きで僕の耳に届いていた。

「珍蔵さん、恥ずかしくないんですか?こんな風に人を騙して、嘘をついて、やくざもんの手先なんかに成り下がって、あなたはそれでいいんですか?それに、この人たちはどうなります?何も悪いことをしていないのに、どうしてこんな理不尽な目にあわせなけりゃならないのですか?」
「山城、このうっとうしいガキは一体なんじゃい?」
「兄貴、行きましょう。先方も待ってるし、もう時間ありませんって。」

 入り口に立って見張っていた珍蔵が、結城の背中に怒鳴るように声をかける。

「どけやっ。」

 ローズマリーと結城の間に入っていた僕が、結城に側頭部を蹴り上げられたのはその時だった。瞬間、腕でガードしたけれど、僕は結城の蹴りをまともに受けてしまい、バランスを失ってベッドの端から、絨緞の床の上に叩きつけられた。頭蓋骨が床にあたる鈍い音が部屋に響き、同時にローズマリーが小さく悲鳴をあげた。

「ローズ、一緒に来いや、おのれを見たらもう我慢できんのや。」
「兄貴、女は下のもんが後で必ず届けますから、ここはとりあえずお願いしますよ。」

 珍蔵が先に立って、入り口のドアを出て行こうとしている。彼らがこれから何をしようとしているのかは、僕でさえ想像がついた。明るくなる前に、たぶん手に入れたドラッグを取引している誰かに渡す手引きをするに違いない。結城は下をむいたままのローズマリーのあごの辺りを、これ以上いやらしく触ることができないくらいしつこく撫で回してから、珍蔵の後を追って部屋から出て行った。

「三辻、若いもんが外は固めとる。逃げようなんて思わんと、ここでおとなしくしとれ。」

 ドアを閉める前に珍蔵がもう一度顔を出した。その顔が鬼に見えてしまったことも、やつらが出て行った後の長い間、珍蔵の最後の言葉が僕の耳にこびりついてしまっていたことも、ここで説明する必要はもうないと思う。

「ケイサツノヒトデハナカッタ。」

 ローズマリーは肩で息をしながら、蒼白な顔をこちらに向けている。僕は結城に蹴られた側頭部が出血していないことを確かめると、立ち上がった。そして部屋のドアに近づくと、のぞき穴から廊下の様子を伺った。そして、そこに珍蔵が言っていた通り、さっきワゴン車を運転していた角刈りのチンピラがドアの前に立ってこちらを伺っているのを確かめた。次に受話器を掴んでみたが、回線が切られているのか発信音は聞こえなかった。僕はローズマリーの隣に座りなおし、彼女の震える背中に手を回した。そして、崩れてくる彼女を受け止めながら、これからどうしたらいいのだろうと、これ以上できないくらいに集中して頭をめぐらせた。僕たちに残された時間は、あと数時間だけだった。

 もしもやつらが戻ってくるまでに何か方法が見つからなかった場合、彼女たちを待っている運命は、悲惨極まりないことだけは確かだった。

 窓は開かなかった。バスルームの換気口も小さくて人が出入りすることはできない大きさだった。この部屋の出入りは、あのチンピラの立っている扉の前を通る以外にない。あるいは逃げることができない場合、入り口の前にベッドを重ね、誰も部屋に入れなくしてしまうという方法もなくはない。強行に脱出するのなら僕があのチンピラともみ合っている間に、2人が逃げる方法もある。ただしその場合、エレベーターの前にもうひとりいたら万事休すだった。

 のぞき穴から見える範囲からは、エレベーターのあたりまでを確かめるすべがない。じゃあ、ベッドを積み上げて篭城した場合、どうなるのだろう。まず、このままここで結城が戻ってくるのを待つということ自体が、ローズマリーには耐えられないことなのではないだろうか?篭城作戦は一歩間違えれば、相手がなだれ込んできて自分から捕まりに行くようなものだった。そうなると一か八か、あのチンピラに体当たりするしか助かる道はないように思えた。

「ワタシハ、ダイジョウブデス」

 僕が考えていることを見通したように、ローズマリーが口を開いた。

「ユウキガホシイノハ、ワタシダケデスカラ。」
「何を言ってるんだ、きみはそれでいいのか?いや、きみがそれでいいと言っても、俺は嫌だ。俺はシャロンに約束したんだ。だから、きみをユウキに渡すことなんて絶対にできない。」
「ヤクソク?」
「ああ、きみのためなら死ねるって約束した。」
「ドウシテ?」
「それは、、、」
「ソレハ?」
「この国の恥を、きみのようなよその国の人に拭ってもらうわけにはいかないからだよ。」
「ハジ?」
「うまく言えないけど、とにかくここは俺に任せてくれないかな?頼むよ。」

 ローズマリーは頭を振りながら立ち上がった。そしてバスルームに入って蛇口を勢いよくひねった。洗面器に激しく水の跳ね返る音がした。その音がずいぶん長い間続いた後、バスルームから出てきたローズマリーはもう泣いてはいなかった。

「アリガトウ。」

 なんで今アリガトウなのだろうと思って見ているうちに、彼女はドアに進み、そしてあっという間にチンピラの待つ廊下に消えていった。それは本当に一瞬の出来事だった。僕は彼女の後を追おうとして立ち上がった。そして、そのときベッドに横になっているはずのシャロンが、激しく吐血しているのを見たのである。
 

<第六章へ続く>


 

三辻 孝明(みつじたかあき)
「CUBE IT AUSTRALIA」のCEO(最高経営責任者)。早稲田大学人間科学部環境科学科卒業。1989年より豪州在住。2020年8月10日永眠。

 
 
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