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【連載小説】 硫黄島ダイアリー 第六章『地球映画館』3話

筆者三辻孝明さんは、一昨年の2019年8月に癌の告知を受けました。以後、自然療法や抗癌剤治療を経て癌の摘出手術を受けるなど、その約10ヶ月間、「静かに死を見つめながら、久しぶりに文章を残すことができました」と話しています。また「レポートに毛の生えたようなものですが、過去の自分自身の経験を形にできたことは、少し肩の荷が降りたような気持ちです。よろしければ、ご一読ください」と語っていました。

そして、2020年7月16日に当「硫黄島ダイアリー」の連鎖がスタートすることになりましたが、翌月の8月10日、残念ながら三辻孝明さんは帰らぬ人となってしまいました。

闘病生活中に死を見つめながら書き上げられた当連載「硫黄島ダイアリー」ですが、生前の故人の遺志を受け継ぎ、パースエクスプレスでは連載を継続掲載致します。読者やユーザーの皆様には、引き続き「硫黄島ダイアリー」をご愛読頂けると幸いです。

<第六章『地球映画館』2話はこちらから>
 
 

 
【連載小説】

硫黄島ダイアリー

三辻孝明

 

第六章『地球映画館』3話


 
 年が明けた。

 その日は、風の影響で仕事がキャンセルされたために、僕は朝から部屋で有機農法の参考書に目を通していた。凍りつくような朝だった。窓ガラスの下に、ドライフラワーにした桔梗が見える。キヨシからの連絡も途絶えたままだった。

 事件が本当に解決したのは、年が明けてからのことだった。

 新宿で通称FULL METAL JAKETと呼ばれる貫通型の弾を購入した結城が、警察の張っていた捜査網にかかり、苦し紛れに逃げ込んだ病院に篭城したのだが、未明に警察の特殊部隊によって逮捕されたのだということだった。結城の近くで最後まで折衝を重ねていた珍蔵が、抵抗した結城のライフルによって被弾をし、負傷をしたという記事が同じ日の夕刊に写真入で小さく掲載されていた。

 珍蔵は千村鍛造という名の刑事であったらしい。そして、結城の立てこもっていた病室とは、偶然をはるかに超えた雪絵先生の部屋に他ならなかった。

 1週間ほどして面会謝絶が解かれるのを待ってから、僕は飯田橋にある警察病院に入院している珍蔵を訪ねた。

「おひさしぶりです。」

 僕は看護室で借りた花瓶に、持って来た梅の枝の束を入れた。

「ぎょうさんつぼみがついとるな。」

 珍蔵が感心して眺めている。

「もうすぐ、いい匂いがしますから。」

 ベッドサイドのテーブルの上には幼い女の子を抱いた着物姿の女性の写真が飾られている。

「ご家族ですか?」
「ああ、おれにも家族ぐらいはおるよ。」

 そう言われて周りを見ると、幼い子どもの描いたクレヨン画が、ベッドのある反対側の壁に所せましと飾られている。

「それより三辻、おまえに聞きたいことがある。おまえ、島にあった本を持ち出さなかったか?結城が籠っていた新宿の病室に似たような本が置いてあってな、そこに寝ていた婆さんが大事そうに持っていたんだよ。」
「やだな、横になりながらも尋問ですか?」
「いいから答えろや。」
「その人は婆さんではありませんよ、雪絵先生っていうんです。彼女が持っていた本はあなたのおっしゃる通り、僕が斉藤から預かっていたものです。」
「雪絵先生て、おのれはあの婆さんのことも調べとったんか?」
「いえ、細かい事情はあとからキヨシ少年に教えてもらったんです。それから斉藤からの本は僕を経由してローズマリーが預かり、雪絵先生のもとに届けてもらいました。」
「べらべらと話しやがって。じゃあ、何か?あの婆さん、ローズマリー、斉藤、それにお前らは、あの本でつながとったのか?」
「ええ、結果としてそうなりました。でも島に渡る前は、ぜんぜん関係のない人間同士でしたけど。」

 珍蔵は、低くうなりながらしばらく天井を見上げていた。そして突然、病院中に響くような大声を張り上げた。

「おのれ、島にあるものを持ち出したら、どえらいことになる。何度もそう注意しておいたろうが。見てみい、おのれのために腕一本なくすとこやったやろ。」
「珍蔵さん、でも今、キヨシ少年はきっと喜んでくれていると思います。」
「そのキヨシちゅうのは、一体何者じゃい?」
「やだな、硫黄島にいた伝令の少年兵ですよ。珍蔵さんも包丁研ぎながら可愛がっていた男の子じゃないですか。」
「包丁やない、銃剣だ。おのれは包丁と銃剣の違いも分からんのか?それになあ三辻、その珍蔵いうの、もうやめてくれんか。」

 島に着いた最初の日、風呂場の脱衣場で珍蔵が簀の子の上に服を脱ぎ散らかしていた様子が、蘇ってくる。たしか、あの時は「チョンガーいうのもうやめんかい」と怒鳴られた気がする。鯨を見に行った日、土砂降りの雨の中でトーチカを背景に立っていた珍蔵は、今でも一枚の美しい絵になって僕の記憶の中に焼きついている。

「わかりました。なんか珍蔵さんとお別れするようで寂しいですけど。」
「おお、頼むよ。まあ、お前とも、もう会うこともないやろうがな。」

 そうなのか、この人とももう会えなくなってしまうのか。

「一つ聞いてもいいか?」
「どうぞ。」
「お前、まだ分かれたかあちゃんのこと、引きずってるのか?」
「いや、もうそんなことないですよ。」
「島に来た頃は、かあちゃんへの未練が顔にべったり張り付いておったからの。」
「そんな風に見えてたんですか。自分では気がつきませんでした。」
「そういえば、結城の女はどうしてる?」
「結城の女?」
「霞町のクラブでホステスのバイトしとった、気立てのいい外人さんよ。」
「あの人は、結城の女なんかじゃありませんよ。それに何であなたが霞町のクラブのことまで知ってるんですか?」
「まあ、捜査の関係で、ほんの少しあそこにも顔を出してたからな。もしかしてお前ら、もうできとるのか?」
「できてるって、それどういう意味ですか?」
「相変わらずおのれは、胸くその悪くなる質問しかできんやっちゃなあ。そんなもん、女とはうまくいっているのかちゅうことじゃい。」
「彼女との間には何もありません。住んでいるところも分からないし、それにもうじき帰るんです、あの人。」
「あの人?何だその物言いは。おのれはそれでいいんか?それで幸せなのか?」

 午後の弱い日差しがレースのカーテンの向こに届いている。中庭で子どもたちが元気な声を上げて互いの名前を呼び合っている。

「なあ三辻、たまにはおのれの気持ちを、今見ているもの、感じているものを信じてみいや。生きるっちゅうことはな、そういうことの積み重ねじゃい。そうは思わんかい?」

 そう話す珍蔵の声はやさしかった。

「三辻」
「はい。」
「達者で暮らせ。」

 珍蔵の、いや千村刑事の細長い瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。
 

<第六章『地球映画館』4話へ続く>


 

三辻 孝明(みつじたかあき)
「CUBE IT AUSTRALIA」のCEO(最高経営責任者)。早稲田大学人間科学部環境科学科卒業。1989年より豪州在住。2020年8月10日永眠。

 
 
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