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【連載小説】 硫黄島ダイアリー 第六章『地球映画館』5話(最終回)

筆者三辻孝明さんは、一昨年の2019年8月に癌の告知を受けました。以後、自然療法や抗癌剤治療を経て癌の摘出手術を受けるなど、その約10ヶ月間、「静かに死を見つめながら、久しぶりに文章を残すことができました」と話しています。また「レポートに毛の生えたようなものですが、過去の自分自身の経験を形にできたことは、少し肩の荷が降りたような気持ちです。よろしければ、ご一読ください」と語っていました。

そして、2020年7月16日に当「硫黄島ダイアリー」の連鎖がスタートすることになりましたが、翌月の8月10日、残念ながら三辻孝明さんは帰らぬ人となってしまいました。

闘病生活中に死を見つめながら書き上げられた当連載「硫黄島ダイアリー」ですが、生前の故人の遺志を受け継ぎ、パースエクスプレスでは連載を継続掲載致します。読者やユーザーの皆様には、引き続き「硫黄島ダイアリー」をご愛読頂けると幸いです。

<第六章『地球映画館』4話はこちらから>
 
 

 
【連載小説】

硫黄島ダイアリー

三辻孝明

 

第六章『地球映画館』5話(最終回)


 
 親愛なるローズ、私は今、ニューキャッスルにある病院の保養所で、短い休暇を過ごしています。今回のタームもなんとか終了し、抗がん剤治療に続く免疫療法もそれなりにきつかったけれども、今は少しずつ体力が戻ってくるように感じています。もう、髪の毛も全部なくなってしまいました。でも、昨日新しい先生から検査の結果を聞いたときに、もうくよくよするのはやめようと思っているのです。

 ニューキャッスルは、私達の通った大学のキャンバスのある街だからなおさら、私にとっては思い出の深い、とてもノスタルジックでセンチメンタルなところです。心を弾ませて大学に入学した18歳の暑い盛りの2月、私は自分の未来を誰よりも信じていました。

 そして、2年生の秋、胸に刺すような痛みを感じてしまった、あの朝。私はキースと夜更かしをして、危うく授業に遅れるところを通りかかったクラスメートの車に拾われて、始業のベルと同時に教室に駆け込もうとしていたところでした。それからの月日は、あなたにも話した通り、私にとってはチャレンジの連続でした。

 東京でのあなたとの日々は、冒険に次ぐ冒険で、そのひとコマひとコマが今思い出しても涙が出るくらい私を幸せにしてくれた宝物たちです。私にとっての宝物、そしてその宝物の中にいつもあなたが一緒にいてくれた幸せを、私は今深い感謝を込めて感じています。

 随分、自分の運命を恨んだことがありました。でも今は、私は今までに感じたことのないくらい自分の未来を強く信じることができるのです。例えば、どこまでも平らな畑の真ん中で一生過ごす人よりも、崖っぷちに立つ家に住んでいる人の方が、平らで安心できる土地に対する憧れは、はるかに強いと思うし、その価値もずっとずっとわかっていると思うのです。

 だから、生きるということの価値を誰よりも知っている今の私は、とても幸せ。あなたのいる世界に一日も早く戻りたいから、そしてその世界がキラキラと、とても輝いて私を待っていることを知っているから、私はこれからもどんな試練も越えていけるし、絶対に夢を棄てないで生きていけると思います。

 来週には次の治療が始まります。それが終わったら、また手紙書くわね。そして、もしもシドニーに戻ってくるのなら、きっと私にも知らせてください。心より愛を込めて シャロン・ワイズブロット

 桜が終わろうとしている。

 私は、その日も新宿にある病院にいた。雪絵先生の最後が近づいていることを知っていたからだ。まだ肌寒い4月の夜、待合室の壁の時計は夜10時を指していた。慌ただしくナースが病室から出て、どこかに消えていく後姿が見える。消灯の後の廊下に、それ以外の人の気配は全くない。

 今晩はなんとか持ちそうなのだろうか。

 そう考えながら、帰り支度をしてもう一度廊下に目を向けた時だった。病室の扉が開き、人の影が現れた。その影が足音を立てないまま、私の方に素早く近づいてくる。見るとカーキ色の疲れた軍服に帽子を被り、その下から血のけのない顔がのぞいている。

 「モシカシテ、キヨシクン?」

 私がそう声をかけたとき、目の前まで来ていた少年は足を止めた。

 少年の背中で雪絵先生の部屋から緊急を知らせるブザーの音が小さく聞こえている。その音が耳に入ったのだろう、少年は顔を上げるとお別れする時がきましたと蚊の鳴くような声でつぶやいた。

 「ローズマリーさん、最後に、ご報告させてください。」

 私の名前を口にした少年は、背筋を伸ばし、直立した姿勢のままで続けた。

 「シャロンさんのことであります。」
 「シャロン、ノコト?」
 「前世のシャロンさんも、あの島の戦争に従事した兵隊でした。」

 キヨシ少年は輪廻転生について話し始めている。

 「ドウシテ、アナタガ、ソノコトヲシッテイルノデスカ?」

 少年は後ろで緊急のブザーの続く雪絵先生の部屋の様子を気にしながら、わたしの質問には答えずに、話の先を続けた。

 「そして、三辻さんは最後に身代わりになって手榴弾から僕を守ってくれようとした、アメリカ海兵隊の衛生兵です。あの本を安全な場所に移して置いてくれたのも、前生の彼でした。遠い過去の出来事ですが、今こうしてみなさんとの縁が完結を迎えることを、本当に嬉しく思っております。」

 キヨシ少年の目には光るものがあった。

 「ローズマリーさん、硫黄島戦争資料館の日記、いつかできたら必ず観に行ってみてください、お願いします。」
 「ニッキ? イオウジマノダイアリーデスカ?」」

 キヨシ少年は直立し、静かに頷きながら、私を見つめている。

 「歌を歌っていたのは自分と仲間の少年兵たち、そしてあの日記はそれを見ていた前生のシャロンさん、長野県塩田平出身の真田曹長が書かれたものであります。」
 「ワカリマシタ。イツカキット。」
 「これでもう思い残すことはなにもありません。」
 「チョットマッテクダサイ。スコシオハナシデキマスカ?」

 聞き返す私の言葉に少年は笑顔を浮かべただけで、もう何も答えてはくれなかった。やがて少年は切るような敬礼で私の言葉に答えると、そのまま踵を返した。そして最後にもう一度、永遠の別れになるのだろう、私を振り返った。

 「いつまでも、お達者で。」

 それがキヨシ少年の残した最後の言葉だった。

 オタッシャデ。暖かい響きの言葉だった。どういう意味なのだろう?私は少年の残した言葉を口の中で何度かくりかえした。

 気が付くと雪絵先生の病室からのブザーの音も止んでいる。私は慌てて雪絵先生の病室に続く長い廊下に視線を戻した。そして、まだ歩いているはずのキヨシ少年の姿が、もうどこにもないことを、その時初めて確かめたのだった。


 

 

三辻 孝明(みつじたかあき)
「CUBE IT AUSTRALIA」のCEO(最高経営責任者)。早稲田大学人間科学部環境科学科卒業。1989年より豪州在住。2020年8月10日永眠。

 

【パースエクスプレス編集部より】
故三辻孝明さん作の「【連載小説】硫黄島ダイアリー」は、これで完結です。第一章から第六章で全33話からなる長編連載小説でしたが、作中には日豪に関連した多くの事象や、日本だけではなくオーストラリアや西オーストラリア州の実存する場所も数々登場しました。生前、日豪の架け橋となる仕事でも活躍された故人の想いが随所に散りばめられ、また人種を越えた人とのつながりを深く見つめた大作でした。

 
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