筆者三辻孝明さんは、一昨年の2019年8月に癌の告知を受けました。以後、自然療法や抗癌剤治療を経て癌の摘出手術を受けるなど、その約10ヶ月間、「静かに死を見つめながら、久しぶりに文章を残すことができました」と話しています。また「レポートに毛の生えたようなものですが、過去の自分自身の経験を形にできたことは、少し肩の荷が降りたような気持ちです。よろしければ、ご一読ください」と語っていました。
そして、2020年7月16日に当「硫黄島ダイアリー」の連鎖がスタートすることになりましたが、翌月の8月10日、残念ながら三辻孝明さんは帰らぬ人となってしまいました。
闘病生活中に死を見つめながら書き上げられた当連載「硫黄島ダイアリー」ですが、生前の故人の遺志を受け継ぎ、パースエクスプレスでは連載を継続掲載致します。読者やユーザーの皆様には、引き続き「硫黄島ダイアリー」をご愛読頂けると幸いです。
<第五章『ベイサイドクラブ』6話はこちらから>
【連載小説】
硫黄島ダイアリー
三辻孝明
第六章『地球映画館』1話
「そうなの、あなたはそれでいいの?」
「あなたは幸せをつかもうとしているのに、ありとあらゆる理由を使って、今来た道を戻ろうとしている。」
「自分の願いが叶うことが、そんなに恐ろしいの?」
「自分の願いが折れることで、どうして安心するの?」
「自分の未来を閉ざしてしまうのは、誰の仕業?」
「誰もあなたを邪魔してはいない。」
「なのにあなたは来た道を戻っていく。」
「そうなの、あなたは本当にそれでいいの?」
シャロンの容態は、まわりが考えているほど、簡単なものではなかった。
あの日、部屋を飛び出したローズマリーを追って、廊下に出た僕を待っていたのは、珍蔵のワゴン車を運転していた若いチンピラではなく、麻布署の刑事たちだった。
何がどうなっているのか分からないままの僕を残して、シャロンは刑事たちの手配した救急車で信濃町の慶応病院に運ばれていった。そして、骨髄から他の器官に転移してしまった癌のために、彼女はオーストラリアでの最後の治療を受けるという結論を受け入れたのだった。
そして付け加えると、この時わかったことなのだが、珍蔵は在日米軍の治外法権を隠れ蓑に、ここ数年続いていた麻薬取引の摘発をするために、荒崎興業に送り込まれたおとり捜査中の、現職の警視庁の刑事だということだった。日本では表向き、おとり捜査は厳禁であったから、そのために長い間、麻布署の刑事たちも珍蔵の立場を把握できないでいたのかもしれない。
8日後のシャロンの出国の日、成田空港に見送りに来た人間は僕ひとりではなかった。三田のオーストラリア大使館の職員がふたり、ずっと車椅子のシャロンに付き添って出国手続きを行っていた。だから、僕が彼女に近づくわけには行かなかったし、事件の後だったからなおさら、当事者の一人の僕が気楽に話しかけられる雰囲気では毛頭なかった。
今まで線と線が交わっていた図柄が、気がつけばバラバラの点になって、お互いが離れて行こうとしている。意識しなくてもそのことがわかってしまい、心が凍えるほどに寂しかった。気がつけば、彼女とは、男女の関係を超えて、どこまでも互いを理解ようとした誠実さを、シェアしていたからなのかもしれない。
「あなたは今、映画館にいると思わない?」
「映画館?ねえ、シャロン、ここはベイサイドクラブだよ。映画なんてどこにも映ってないよ。」
「ううん、そうじゃなくて、私たちの人生って映画館に途中から入ったようなものなんじゃないかって思わない?」
「どうしちゃったんだよ急に?」
「いいから黙って聞いてよ。それで、その映画は絶対に終わらないの。私たちの誰もが例外なく、例外なくよ、全員途中でその映画館から出て行かなければいけないの。例えば、キヨシ少年はわずか16歳で映画館を出ることになってしまったわ。で、誰一人として、はじめからその映画を観た人はいないし、誰一人としておしまいまで観ることもできないの。ねえ、言ってることわかるかな?」
「ああ、なんかわかる気がする。君が言いたいのは、生まれてから死んでいくまでの間、僕たちが見ることのできる全てのことの話でしょう?」
「その通りよ。で、その映画の名前はなんて言うのでしょう?」
「地球とか文明とか、もしかして。」
「そう。」
「でもそんなこと考えちゃったら、俺が今生きてること自体も映画のシーンの中には入っちゃってるんでしょう?俺の周り全部が刻々と変る映画のカットということにもなるんでしょう?それを映画館で観て感じてる俺自体が、もしかしたら気がつかないままその映画館ごと出演しちゃってるみたいなもんじゃない?そういうことなんでしょう?」
「そうよ、いい線いっているわ。私はずいぶん前から、そのことに気づいていたの。」
「自分も、そのとんでもない永遠に続く映画の中のキャストだってことに?」
「そう、あなたも私も生きてる人全部が、無意識にそれぞれの役を演じるためにここにいるってこと。でもね、ここの舞台装置ってすごいでしょう?人には寿命があるし、だから誰も最後までそれと付き合うことはできないの。どこかでさよならして、途中でこの壮大な舞台から出て行かなきゃいけないのよ。それが遅いか早いかの違いだけでね。だから、病気のことで、私だけ早く映画館を出ることになったとしても、もうそれはそれでもいいって思えるようになったの、この頃。」
僕はなんと答えていいか、言葉が見つからなかった。彼女の何だか妙に優しい眼差しがこちらを見ている。
「私達は、その長い映画の一部を観るために、そしてその舞台装置を少しの間使わせてもらって自分も作品に出演するためにみんながここにいるの、ここにこうして生きているのよ。ねっ、でしょう?」
「ああ、間違いなくその通りだと思うよ。」
「そして、見方を変えれば、時間と空間を旅するために私達はこの地球に生まれてきて、今、ここでこうして過ごしているともいえる。だから、わたしたち全員、誰一人例外なく旅人だとも言えると思う。」
「旅人かあ、なんか自由でいい響きだね。」
「そうよ、ここであなたの体験していること全部が映画のシーンであり、旅なのよ、ほんとに全部がね。なにも外国に行くことだけが旅じゃないの。」
「そうだよね、毎日帰っていくあの部屋だって、毎日乗っている京浜急行だって、君のいうその舞台装置の一つに過ぎないんだよね。そうだとしたらもしかして、俺たち、今その地球映画館で隣同士で座ってる旅人ってことになる?」
「そうよ、だからこんなにひろい世界の中で、こうして一緒にいられること自体が奇跡なのよ、凄いことなのよ。そうじゃない?」
こちらを見つめる彼女の瞳が輝きを増している。
「でもね、健康な人たちってみんなそのこと、すぐに忘れちゃうのよ。今、ここにいられるっていう幸せを。」
「確かに君の言う通り、いつか映画館を出る時には、またみんな一人ずつさよならしなくちゃいけないんだもんな、入ってきた時と同じようにさ。それで、その後はもう今度いつ会えるかもわからないんだもんな。」
「だから一緒にいられる今がとっても大切って思わない?」
あの日、ベイサイドクラブのテラスで、シャロンはまぶしそうに太陽に手のひらをかざしながら、そんなことを僕に話してくれた。
三辻 孝明(みつじたかあき) 「CUBE IT AUSTRALIA」のCEO(最高経営責任者)。早稲田大学人間科学部環境科学科卒業。1989年より豪州在住。2020年8月10日永眠。 |
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