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【連載小説】 硫黄島ダイアリー 第三章『SALUTE』3話

筆者三辻孝明さんは、昨年の2019年8月に癌の告知を受けました。三辻さんは以後、自然療法や抗癌剤治療を経て、癌の摘出手術を受けた10ヶ月間、「静かに死を見つめながら、久しぶりに文章を残すことができました」と話しています。また「レポートに毛の生えたようなものですが、過去の自分自身の経験を形にできたことは少し肩の荷が降りたような気持ちです。よろしければ、ご一読ください」と語っていました。

そして2020年7月16日に当「硫黄島ダイアリー」の連鎖がスタートすることになりましたが、翌月の8月10日、残念ながら三辻孝明さんは帰らぬ人となってしまいました。

闘病生活中に死を見つめながら書き上げられた当連載「硫黄島ダイアリー」ですが、生前の故人の遺志を受け継ぎ、パースエクスプレスでは当連載を継続掲載致します。読者やユーザーの皆様には、引き続き「硫黄島ダイアリー」をご愛読頂けると幸いです。

<第三章『SALUTE』2話はこちらから>
 
 

 
【連載小説】

硫黄島ダイアリー

三辻孝明

 

第三章『SALUTE』3話


 
 2月の粉雪が舞う凍りつくような朝、灰色の市場は人であふれていた。その朝、私たちはソウルにいた。ローズの日本での滞在ビザが切れてしまった関係で、彼女は一度外国に出る必要があったからだ。市場の中のあちこちで湯気が上がり、威勢のいいハングル語のやり取りが耳に届いてくる。人生は長さではない。私たちに与えられた時間はその瞬間、瞬間の連続に過ぎない。過去も未来もなく、果てしなく広大な今が続いているに過ぎない。そんなわかりきったことを、私はその朝、改めて考えていた。

 私の体に癌が見つかったのは、私が大学に進んで2年目のことだった。幸い、発見が早かったため、胸のがん細胞はすべて摘出されたはずだった。けれども、4年たった昨年、東京の病院での定期検査で癌が骨髄に転移していることが見つかってしまった。私は癌の転移を抑えるためにずっと抗癌剤を服用していたから、医師からその知らせを受けたときには心底打ちのめされてしまった。この黒い髪だって、脱毛がひどいからずっとウイッグを帽子代わりに冠っているだけで、気に入っているわけではけしてない。そして、またあのつらい治療が待っている。もう今度は、越えられないかもしれない。そう考えただけでも、今まで自分を支えてきた気持ちが崩れそうになる。だからソウル行きは、私にとっても気分転換をするいい機会になるはずだった。

 マリオからの手紙は、ソウルに出発する前日に三田のアパートメントに届いていた。ソウルの安ホテルで、オイルヒーターを抱えながら、最後の夜、日本語の読めないローズのために、私はそれを音読したのである。
 
 
前略、ローズマリー様

 お元気でしょうか。

 今一月の終わりです。ここは雪に囲まれています。東京も寒いと思います。風邪など引かないようお過ごしください。

 あなたには、大変申し訳ないことをしてしまいました。今、勉強の時間で窓の向こうの降り続く雪を見ています。どうしてあんなひどいことをしてしまったのだろうと、後悔をするばかりです。あの日、あなたをホテルに送ったこと。シャロンさんが不在の時を狙っての計画でした。あなたは初めから「何か変です」と言っていました。そのあなたがホテルに行ってくれたのは、俺を信じてくれたからなのです。あなたはホテルの部屋で、俺が助けに来てくれると最後まで希望を捨てずに耐えていたに違いありません。でも、結果が示しているように俺はあなたを助けませんでした。

 でも、そのまま家に戻る気にもなれずに、遠くに止めた車からアパートに帰るあなたを待ちました。あなたは、土砂降りの雨の中をたらいをかかえて、傘も差さずに歩いていました。9月の、強い台風が近づいていた晩でした。俺は、あなたに手を貸すこともしないでじっと見ていました。ただ、じっと見ていたのです。あの日があなたに会う最後になりました。俺は、あの次の日も、その次の日も、そしてまたその次の日も、クラブで働きました。けれども結城さんが顔を出し、何もなかったように振舞うのを見て、俺は嫌な気持ちになりました。

 俺は店の金に手をつけていました。結城さんはそれを知っていて、俺にあなたをホテルに呼び出すようにと言いました。そうしたら、金のことはもういいからと言いました。でも、それで終わりにはなりませんでした。罪の上塗りを繰返すことになってしまいました。結城さんはあなたがクラブに来なくなると、しつこくあなたの行方を捜し始めたのです。そして、あなたの友人のシャロンさんまで罠にかけようとしたのです。あの夜、若い刑事さんが部屋に飛び込んできた時、俺は慌てましたが、同じくらいにこれで全てが終わるんだと、観念できることを少し嬉しいと思いました。

 ローズマリー様、自分は今その罪のつぐないの日々をここ、長野刑務所で送っています。自分の弱さに後悔するばかりです。たぶん、聡明なあなたにはもう全部が分かっていることで、説明はいらないと思います。でもひとつだけ、言わせてください。俺は、あの雨の中で見たあなたを一生忘れません。俺はあの時、ずぶ濡れになって歩いているあなたから、生きることが何であるかを見たんです。

 あなたは逃げなかった。あなたは最後まで俺を信じてくれた。そして、とことん傷ついてしまわれた。それでもあなたは決して誰かにすがることもなく、たらいを持ってびしょ濡れになりながら歩いていたのです。たらいが何を意味していたか、頭の悪い俺でもすぐに分かりました。あの晩のあなたはぎりぎりだったと思います。人をはめておいて、突き落とすようなことをしておいて、それをただ眺めていた俺のような人間にこんな話を続ける資格がないことは、十分承知しています。

 でも、俺もそういう人になりたいのです。あなたのように、全てを受け入れ、そして前に進む勇気を持ちたい。

 長くなりました。ローズマリー様、俺のくすんだ目を覚ましてくださって、ありがとう。いつか、恥ずかしくない男になって、再会できる日がきたらいいなと思います。

 心からの尊敬をこめて。たかし
 
 
 読み終わって、内容を詳しく説明すると隣のローズの瞳からみるみる涙が溢れ出した。私は、そんな彼女の様子に無性に腹が立ってしまった。

「信じちゃだめ。こんなやつの言うこと、絶対に信じちゃだめよ。」

 ローズはひざを抱えながら頷いている。

「一回嘘をついた人間は、一生嘘をつき続けると思ったほうが間違いないわ。これ、私の経験から話しているのよ。もう、ブーメランなのよ。投げても投げても帰ってきてしまうブーメランなのよ。卑怯者はこんな風に謝りながら一生人をだまして卑怯を繰り返すの。それでまた刑務所に戻って、こうやって懺悔するだけなんだわ。一生をかけて、ただ嘘が上手になるだけの人生を生きている人間に、もうこれ以上関わってはいけないの。いくら日本が好きだからって、私たちはそのことを肝に銘じなければいけないのよ。」

 彼女の灰色がかった青い瞳が、涙に濡れている。

「シャロン、私が泣いていたのはマリオのことを許したからじゃない。それだけは誤解しないで。この手紙がとても美しかったから、それで泣けてしまっただけなの。ただそれだけよ。It’s so beautiful, isn’t it?」
「Yes it is.」
「私にはその人の行いを否定することはできても、その人の存在まで否定することはできない。あなたの言うとおり、マリオのような人はまた同じことを繰り返してしまうのかもしれない。けれどもシャロン、あなただって憶えているでしょう?いつも私たちにミネラルウオーターを出してくれたこと、レモンを薄く切って氷の上に乗せて。」
「ええ、憶えている。」
「だから、マリオにもやさしいところがあることは忘れないでいたいの。そのやさしい気持ちが、今刑務所の中で正直に表に出てきているから、こんな究極のジゴロが書いたような手紙を送ってこれたのじゃないかしら。」
「究極のジゴロ?」
「そうでしょう? あんなに悪いことをしたのに、まだこっちを泣かせるのだから、究極のジゴロよ。」
「ねえ、今思いついたんだけど、今度2人で映画作ってみない?それで、そのタイトルが究極のジゴロ。」

 私たちは刑務所で反省しているマリオの姿を想像して、そのダサいタイトルに笑った。

「スキンヘッドに毛糸の帽子被っててさあ、それがツルツルの頭だから滑って落っこちちゃうの。」
「それで下は、刑務所のマークの入ったダサいジャージなのよ。」

 なんでこんなつまらないことで、あんなに笑えたのか後で考えると信じられないのだけれども、私たちは息ができなくなるくらい笑い転げた。

「SHARON」
「Yes?」
「ありがとう。心配かけたけど、わたしはもうだいじょうぶ。I’m ok. I promise.」
「私も大丈夫よ。もうこうなったら今までにもまして思いっきり楽しんで生きて行こうね。」
 


 

三辻 孝明(みつじたかあき)
「CUBE IT AUSTRALIA」のCEO(最高経営責任者)。早稲田大学人間科学部環境科学科卒業。1989年より豪州在住。2020年8月10日永眠。

 
 
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