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【連載小説】 硫黄島ダイアリー 第六章『地球映画館』4話

筆者三辻孝明さんは、一昨年の2019年8月に癌の告知を受けました。以後、自然療法や抗癌剤治療を経て癌の摘出手術を受けるなど、その約10ヶ月間、「静かに死を見つめながら、久しぶりに文章を残すことができました」と話しています。また「レポートに毛の生えたようなものですが、過去の自分自身の経験を形にできたことは、少し肩の荷が降りたような気持ちです。よろしければ、ご一読ください」と語っていました。

そして、2020年7月16日に当「硫黄島ダイアリー」の連鎖がスタートすることになりましたが、翌月の8月10日、残念ながら三辻孝明さんは帰らぬ人となってしまいました。

闘病生活中に死を見つめながら書き上げられた当連載「硫黄島ダイアリー」ですが、生前の故人の遺志を受け継ぎ、パースエクスプレスでは連載を継続掲載致します。読者やユーザーの皆様には、引き続き「硫黄島ダイアリー」をご愛読頂けると幸いです。

<第六章『地球映画館』3話はこちらから>
 
 

 
【連載小説】

硫黄島ダイアリー

三辻孝明

 

第六章『地球映画館』4話


 
 2月の終わりに雪が降る。

 夕方から降り始めた雪は、止みそうにないまま、深々と降り積もっていく。さっきまでベランダの向こうに黒々とした森が見えていたのに、今はもう何も見ることができない。静かな夜だった。

 夜半になって積もり始めたのだろう、行き交う車の音も聞こえなくなり、東京の街は珍しく人通りも途絶えて一面真っ白な世界の中に静まり返っている。シドニーに雪が降ることはけしてない。きっとこの雪は、日本の神様が私にくれた最後のプレゼントに違いない。

 私は、外套をつかむと表に出た。

 深い考えなんてあるわけがなかった。もしかしたら少し体を冷やしてみたかったのかもしれない。アパートメントの玄関を出ると、驚いたことに雪はもうくるぶしの辺りを隠すほどに積もり始めている。灰色のアスファルトも近所の生垣も、白い花びらのような雪が覆い尽くしている。

 私は訳もなく走り出した。結城が逮捕されたことが気持ちを楽にしてくれていることも確かだった。なんだか街も周りも、私を含めた何もかもが新しく生まれ変わろうとしているようで、子どもの頃に戻ったようなときめきを感じてしまった。

 そう言えば、確かにあの夜もそうだった。初めて日本に来た時の夜も、こんなふうに雪が舞っていた。シャロンに連れて行ってもらった銭湯のことや、青いビニールシートの中の屋台のおでん屋さん、モノクロームの世界のような三田の裏通りの情景、思い出すだけでも涙が出るくらいに懐かしかった。戻れるものならもう一度、あの日に戻ってあの日のシャロンに会いたかった。

 気がつけば、ほんの数年前の出来事とが、もう二度と手の届かない世界になって遠くに消えていこうとしている。思い出はこんなふうに駆け足で私の周りを通り抜けて行ってしまうのだろうか。

 三叉路に出た。
 
 右に行くと五反田を経てタカの住む西品川に通じる道、左に行くと通っていた国際学級に出る道だった。私は意識して左の道を歩き始めた。

 ほんとうはタカのアパートメントを訪ねてみたかった。いきなり訪ねて行って、言葉も交わさないまま抱き合ったりしたらすごいことになるんだろうな。そんな風に素直になれたらどんなに素敵なことだろう。でも、頭で考えるだけで気持ちとは裏腹に、私の理性は国際学級のある麻布に向けて歩き始めていた。自分はつくづく地味な人間に、ドラマのない人間に生まれてしまったのかもしれない。考えてみればこれまでの人生で、本当の恋愛すらしたことがない25年を生きてきた女だった。石女って、多分私みたいな女を指す言葉なんだろうな。そんなことを考えながら歩き続けた。でも、気分は悪くはなかった。

 雪に閉ざされ始めた街が、あまりにも美しかったから。深夜を過ぎた人通りのない街。車も全く来なくなった大きい交差点。今、ここで動いているものは、空のかなたから舞い落ちてくる雪の片と、音もなく変る信号機の色だけだった。静まり返った東京の街。息を飲むほどに美しいその街を今、私だけが、歩いている。 雪に埋まった靴の中の感覚は寒さでもうなくなってしまったけれど、私は心の声の導くままに歩き続けた。

 降り続ける雪は強さを増し、ほとんど前が見えないほどの瞬間を迎えていた。私は足を取られながらも、なんとか最後に有栖川公園のベンチにたどり着いたようだった。思い出のたくさん詰まった場所、私にとってどこよりも特別な場所だった梅の木。シャロンと待ち合わせをしたのもいつもここだったし、タカが待っていてくれたのも、素敵な話を打ち明けてくれたのもこの老木の下だった。

 もしかしたら今日が、この大木にさようならを言う日なのかもしれない。そんなことを考えながら顔を上げると、舞い落ちる雪の向こうに雪だるまが見えた気がした。そして、それが雪だるまではなく、長い間降りしきる雪の下にじっと座っていた人の影だと気づくのに、私はずいぶん時間を無駄にしてしまったようだった。

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 その夜、僕を見つけたのはローズマリーだった。

 もう僕たちに言葉は必要なかった。ただ彼女に腕を取られて、たどり着いた彼女のアパートで目にしたものは、今でも、鮮烈な記憶としてはっきりと僕の記憶に焼きついている。

 その夜、僕は初めて主役だった。そして、地球という舞台を間違いなく旅していた。大都市というその舞台には雪が降り積もっていた。そこで僕は生きることの意味を全身で感じる夜を迎えていた。

 バスルームの窓に遠くのネオンサインが映っている。キッチンの方から食器の触れる音がわずかに聞こえる。鏡の前に無造作に置かれた歯ブラシと安全かみそり。Tea Tree Oilと書かれた小瓶。外国製のシャンプーにコンディショナー。ドアに掛けられたバスローブのポケットからのぞくヘアブラシ。そこはまぎれもなくローズマリーの浴室だった。

「ローズのために死ねる?」

どんなに意識してみても、僕は小さい人間だった。地球映画館のことなんて、瞬く間に忘れてしまう程の人間だった。窓の外の雪を見ていて発作的に、深夜の街を抜けて公園のベンチに向かった自分を支えてくれたのは、あの日、シャロンの残してくれたあの言葉だった。でも、何かを期待していたわけでは決してなかった。ただ、彼女と自分を結ぶ最後の微かに残された糸が、あの公園のベンチなのなら、もう逃げることをやめてそこに身を置いてみようと思っただけだった。ベンチという名の壮大な舞台装置の上に。

 そして、そこで感じること、そこで見えるだろうことに身を任せ、主役を演じきってみようと思っただけだった。珍蔵さんの言う、自分の見て感じたことを信じようと思っただけだったのだ。どれくらい雪の中でそうしていたのだろう、麻痺した体に寒さはもう感じなかった。むしろなんだか暖かくなってきた、楽しくなってきたと思い始めた時だった。朦朧とする意識の向こうに、ローズマリーが現れた気がした。それは、僕の人生の中で幻覚が現実と重なった、はじめてピントの合った映像の流れ始めた瞬間だった。

 ドアの開く音が聞こえる。ローズが近づいてくる。向かいに体を沈めたとたんお湯があふれ出す。浴槽の中の氷のような彼女の足。

「Would you like some wine?」

 キャンドルの弱い光の中で彼女の輪郭が柔らかく浮かんでは消えていく。その輪郭が手を伸ばしてワインのボトルをつかもうとする。繊細なうなじにアップにした金色の髪。

 彼女はワイングラスをキッチンに忘れてきたことに舌打ちをしている。歯磨きのプラスチックのコップなら手が届くけれども一つしかないらしい。

 遠くで貨物列車の通る長い音がする。天井の、逃げ場を失った湯気が少しずつ水滴に変ろうとしている。頭の芯がまだ凍ったまま、僕はもう何も考えることができなくなっている。

 ローズが小さく笑う。

「葡萄畑の贈り物。」

 彼女の顔が近づいてくる。そして、そのまま唇を重ねる。

「Would you like some wine?」

 この言葉を今夜ここで聞くのは何度目だろう?柔らかい影がまたワインを口に含んでいる。
 

<第六章『地球映画館』5話へ続く/次回で「硫黄島ダイアリー」最終話>


 

三辻 孝明(みつじたかあき)
「CUBE IT AUSTRALIA」のCEO(最高経営責任者)。早稲田大学人間科学部環境科学科卒業。1989年より豪州在住。2020年8月10日永眠。

 
 
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