筆者三辻孝明さんは、一昨年の2019年8月に癌の告知を受けました。以後、自然療法や抗癌剤治療を経て癌の摘出手術を受けるなど、その約10ヶ月間、「静かに死を見つめながら、久しぶりに文章を残すことができました」と話しています。また「レポートに毛の生えたようなものですが、過去の自分自身の経験を形にできたことは、少し肩の荷が降りたような気持ちです。よろしければ、ご一読ください」と語っていました。
そして、2020年7月16日に当「硫黄島ダイアリー」の連鎖がスタートすることになりましたが、翌月の8月10日、残念ながら三辻孝明さんは帰らぬ人となってしまいました。
闘病生活中に死を見つめながら書き上げられた当連載「硫黄島ダイアリー」ですが、生前の故人の遺志を受け継ぎ、パースエクスプレスでは連載を継続掲載致します。読者やユーザーの皆様には、引き続き「硫黄島ダイアリー」をご愛読頂けると幸いです。
<第三章『SALUTE』4話はこちらから>
【連載小説】
硫黄島ダイアリー
三辻孝明
第四章『CHEMISTRY』1話
CHEMISTRY
それはまるで二つの心が産み出す、気持ちという名の赤ちゃん。
見えないし形もなにも無い。
でもそれは確かに二人の間で生きている。
CHEMISTRY
それはまるで二つの心が産み出す、気持ちという名の赤ちゃん。
School Fate が近づいている。日本では学園祭とかバザーとか言うのだろうか。私は、今年はピエロの衣装を着て、子どもたちと舞台劇をすることになっている。メイクアップも衣装の縫いつけも自分でしなければならないから忙しい。舞台劇では、私は一輪車に乗って笛を吹く役を演じる。その舞台を手伝ってくださるのが、上の学校の古川先生のはずだった。古川先生はこの学校で一番古い先生だった。小柄で白くなった髪を無造作に結い、いつも学校のグレーの教員服を身に付けている。数年前にご主人を亡くされ、今はひとりで暮らしているらしい。私自身、9ヶ月前にここの国際学級の面接を受けた時にも、その面接をして下さったのが古川先生だった。以来、先生は学校で私を見かける度にいつも暖かい声をかけてくださる。
舞台稽古は放課後行われる。キンディは3時までだったから、稽古はそのあとの1時間、毎週火曜日と木曜日ということになっている。キンディで働いたことがある人なら、分かってもらえると思うけれども、子どもたちはいつでも新しいもの、気に入ったことにだけ強い興味を示す。子どもたちは大人と違って、ありのままの自分を私たちにぶつけてくるから、私たちが準備した材料やテーマが気に入らないと、そっぽを向いてしまう子どもが必ず出てしまう。すると、せっかく集中してその日のテーマを進めていた子どもたちにもそれが伝染して、放っておくと収集のつかない事態になってしまう。国際学級では、体罰は禁じられていたから、あくまでも、正面から子どもたちと向き合って彼らの好奇心を引き出していかねばならない。そのために私をはじめ他の先生方も、子どもたちに好評だったテーマをストックし、興味を引く新しいテーマを見つけることに日夜頭を悩ませ、場合によっては夜ふけまでその準備をするという日を重ねるようになる。それにもちろん国際学級にも予算があったから、何でもかんでも、子どもたちの興味を引くためならお金を使っていいというわけではなかった。私はよく電気屋さんや材木屋さんに行って、要らなくなった段ボールや木片をもらい、それを形に切って、色を塗り使っていた。それだと絵の具の費用しかかからない。
先生が病気で入院されているという知らせを聞いたのは、Fateのための練習を始めた最初の火曜日だった。古川先生の代わりに来た別の先生から、そのとき初めて私は彼女が病院に入院されていることを知ったのだった。
私は週末に先生の入院している新宿の病院に向かった。土曜日のせいか病院はすいていた。エレベーターで6階に上がり入院されている部屋を探す。見つけた先生の部屋は外国人の見舞い客を考えてか、YUKIE FURUKAWAとアルファベットでドアの表札にも書かれている。ノックをして中に入ると先生はベッドに体を起こして、アルバムを眺めているところだった。左の腕に点滴のチューブがついている。チューブをたどっていく先に液体の入った容器がステンレスのスタンドから吊るされていた。
「水なんですって。水分をたくさん取ることが大切らしいんです。」
痛み止めなのだろうと思ったが、先生はご自分の病気のことをどの程度ご存知なのだろうか。私はFateの準備のことや、最近の学校の様子など、当たり障りのない話をした。お見舞いのつもりで持って来たくちなしの花を花瓶に挿した。くちなしの花の香りが少し強い気がして気になったけれども、先生は喜んでくださった。
「梅雨時に咲くくちなしは少し早いんですよ。その代わりに香りが柔らかい気がします。」
ひとしきり花の話が続いた。やがて先生は改まって私を見た。
「ローズマリー、実はね、私、癌なんです。Cancerなのよ。」
私はどう答えていいか分からなかった。シャロンに続いて古川先生までが癌に侵されている。
「若いころに無茶をしてしまった時期があってね。よくこの年までもったと思うの。だから、そんなに驚かなくてもいいのよ。人間はいずれは死ぬものだし、私はもう思い残すことはなにも無いの。夫も天国で待っていてくれているでしょうしね。」
先生はいつもと変わらないやさしいまなざしを私に向けている。
「あなたを見ていると私の若い頃を思い出してしまうのよ。ごめんなさいね、こんなおばあちゃんがあなたと一緒だなんて言い出したりして。でも、初めて会った時からそう思っていましたよ。あなたの中のゆるぎない精神、大きな愛情、私も若い頃にはずっと持ち続けていたものですよ。そのことはあなたに会った時にすぐに分かりましたよ。」
先生はアルバムの写真を眺めながら話を続けた。
「あなたがご存知かどうか分からないけれども、戦前は神奈川県の二ノ宮町という所で小学校の国語の教師をしていました。私も本当に若かったし、私の初めての生徒さんが中学を卒業してすぐに戦争に行くことになった時が、一番辛かった。」
セピア色の写真に若い古川先生と坊主っくりのやせた男の子が写っていた。
「ソノコノナマエ、オボエテイマスカ?」
「もちろん憶えています。キヨシ君といって、それは素直でやさしい子でした。出征の日に駅まで送りに行ってね、私はとてもひどいことをその子に言ってしまったの。死んではだめですよ、きっと生きて帰ってきなさいって。だってあなた、その子の渡った島は、玉砕すると言われていた硫黄島だったんですもの。玉砕の島って分かるかしら?昔の言葉ですものね、ひとりも生きて帰れない島という意味よ。キヨシ君だってもうその覚悟でいたと思うの。」
「カレハダイジョウブデシタカ?」
先生はしばらく黙ったまま窓の外を見ていた。そして静かに話された。
「亡くなられたと聞いています。遺品はありませんでしたが、硫黄島の守備隊は全滅してしまったそうですから。でもね、45年経った今でも、私思うんです。きっとたくさんの兵隊さんが一縷の望みを持って命が消える最後の瞬間まで待っていたんじゃないかって。もしかしたら誰かがきっと助けに来てくれるかもしれないって。隣の小笠原は米軍に上陸されることもなく。全く無事に終戦を迎えることができたんですから。そうしてあげられなかったことが本当に辛いし、あんな無謀な戦争を支持してしまったあの時代が本当に憎いのです。」
最後の瞬間まで一縷の望みを信じて待っていた。
私はふとあの日のホテルの部屋を思い出していた。心の中で何度マリオの名前を呼んでいたことだろう。
「ドウスルコトモデキナカッタノ?」
「私には分かりません。ただ、こうして今、私たちがあの戦争で亡くなった方たちの事をすっかり忘れて、何もなかったかのように暮らしていることに、罪の意識を感じてしまいます。こんなふうにあの子たちを無視するように忘れていいものなのかと、深い悲しみを感じないわけにはいきません。」
********
六本木での出来事は、確かな失望を私の中に残していた。偽刑事がタクシーから逃げていったあの日の夕方、砂場で食事をした後で私はローズを連れて麻布署に向かい、すぐにあいつの素性を調べた。
初め刑事たちは理由を付けて渋ってはいたけれども、私が外交官のIDを見せ、マリオ逮捕の第一情報提供者であること、ローズマリー保護のために必要な情報は隠さないことを警察が逮捕当時に約束していたことを説明すると、男は三辻孝明といい、離婚暦がありここ最近、大型車両の運転手をしていることを教えてくれた。
男に犯罪暦はないそうだが、昨年、硫黄島で働いていた時に、結城とつながりのある山城珍蔵という組の構成員の男と面識ができたということも含めて、あいつが完全な白だとは刑事たちも保証してはくれなかった。この情報は私たちにとっては重大だった。少しでも結城とつながりのある人間に近づいてはいけないという鉄則に沿うと、だからここはローズのためにも、あいつを含めて用心するに越したことはなかったからだ。
結城がつかまらないまま、8ヶ月が過ぎもうすぐ桜の季節を迎えようとしている。結城のあの色白で筋肉質の体を思い出すたびに、私はいまだに吐き気を覚えてしまう。結城は生理的に女性に拒絶反応を起こさせる、醜い何かを体中に秘めている男だった。あの夜、目の前で覚せい剤を炙っていた結城は、決してローズを諦めてなんかいなかった。あの男はきっとそう遠くないところに潜伏している。そして、蛇のように機会をうかがっているに違いない。
自分が警察に追われていることは分かっているはずだし、次にあの男が動く時には、それなりのリスクを覚悟で行動を起こしてくるに違いなかった。だとするとその時にはこれまでよりももっと凶暴に、もっと貪欲に生まれ変わった結城になって私たちの前に現れて来るのかもしれなかった。
Fateは盛況だった。その中でもローズの一輪車のピエロは好評だった。途中で息が上がってしまい、笛の音が何回か上ずっていたけれども、見ていた人たちにも彼女のがんばりは十分伝わっていたと思う。私たちはFateの後片付けをしてから、有栖川公園を歩いていた。ローズは衣装や道具のことで、ここ2、3日はほとんど寝ていないらしかった。私はそこでローズの慕っている国際学級の先生が、新宿の病院に入院していることを知った。そして、それが命に関わる病気らしいことも。
「わたしのまわりで起こる不幸の連鎖、、、」
ローズの言う不幸の連鎖とは、母親を亡くし、父親がおかしくなってしまった彼女の子どもの頃から現在までを指しているに違いなかった。その中には、水泳部のキャプテンや、結城の事件、それに国際学級の先生や私の病気のこともきっと含まれている。
「シャロン、小笠原の近くの島ってどこかしら?」
「どうしたの、いきなり?」
「古川先生の生徒がその島で戦争中に亡くなられたそうなの。」
「小笠原ってボニンアイランドのことでしょう?その近くのアメリカの島ならグアムとかサイパン辺りかなあ?」
「ねえ、この間警察で聞いた時に、どこかの島の名前、刑事さんたちが言ってなかった?」
「あの偽刑事の働いていた島のこと?」
「そう、急にいなくなっちゃったあなたの好きなあの偽刑事のいた島。」
「ちょっと、どうして急にそんなこと言うのよ?」
「隠していても好きだって顔に書いてあるわよ。」
「でも全部わかった今はもう好きじゃないもん。」
「とにかくそれで、彼の行っていた島の名前、記憶力の良いあなたなら覚えているのでしょう?」
「ああ、硫黄島のこと?そういえば硫黄島も小笠原の近くだわ、確か。」
ローズは真剣な顔をして何かを考え始めている。そして公園の出口まで歩いた時だった。
「ねえ、ローズ、今日も自転車で帰るの?」
私がそう話しかけた時、何かうわの空の彼女の瞳と出会ってしまった。いやな予感がした。そして、その予感は間違ってはいなかった。
「ねえシャロン、どうしたらもう一度、あの偽刑事さんに会うことができるかしら?」
三辻 孝明(みつじたかあき) 「CUBE IT AUSTRALIA」のCEO(最高経営責任者)。早稲田大学人間科学部環境科学科卒業。1989年より豪州在住。2020年8月10日永眠。 |
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