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【連載小説】 硫黄島ダイアリー 第五章『ベイサイドクラブ』2話

筆者三辻孝明さんは、一昨年の2019年8月に癌の告知を受けました。以後、自然療法や抗癌剤治療を経て癌の摘出手術を受けるなど、その約10ヶ月間、「静かに死を見つめながら、久しぶりに文章を残すことができました」と話しています。また「レポートに毛の生えたようなものですが、過去の自分自身の経験を形にできたことは、少し肩の荷が降りたような気持ちです。よろしければ、ご一読ください」と語っていました。

そして、2020年7月16日に当「硫黄島ダイアリー」の連鎖がスタートすることになりましたが、翌月の8月10日、残念ながら三辻孝明さんは帰らぬ人となってしまいました。

闘病生活中に死を見つめながら書き上げられた当連載「硫黄島ダイアリー」ですが、生前の故人の遺志を受け継ぎ、パースエクスプレスでは連載を継続掲載致します。読者やユーザーの皆様には、引き続き「硫黄島ダイアリー」をご愛読頂けると幸いです。

<第五章『ベイサイドクラブ』1話はこちらから>
 
 

 
【連載小説】

硫黄島ダイアリー

三辻孝明

 

第五章『ベイサイドクラブ』2話


 
 ランチタイムだった。2日前からローズが行方不明になり、昨日警察に話してきたばかりだった。警察の方もその情報を耳にするのは初めてだったらしく、かなり注意深く話を聞いてはくれたのだけれども、こんなことになってしまい、気分はこれ以上ないほどに憂鬱だった。

 建物の中にいるより外に出た方が頭が冴えるかもしれない。私は大使館の近くの児童公園のベンチに座りながら、何か最近のローズのことで見落としていることがあったのではないかと、頭をめぐらせていた。

 そのとき、一台のタクシーが止まった。タクシーから転がるように出てきたのはタカだった。

 またあいつだわ。またあの宇宙人が、私の周りをちょろちょろし始めている。タカは私に気付かないまま、思いつめた目をして大使館の玄関に向かって歩き始めている。何をしているのよ、こんな所で。

 いつかの長者丸や、六本木での出来事のデジャブを見ているのと一緒だった。なんという運命なの。もう、本当にどうしてあいつとは、いつもこうなってしまうのだろう。悪いけど、今あなたの相手をしている暇はないの、連絡の取れなくなってしまったローズのことで、わたしの頭の中はいっぱいなんだから。

 あいつは大使館に向かいながら、ショートカットのつもりなのだろう、突然斜めに道を渡り始めた。渡りながら私の方に顔を向けた。そして、私に気がつくとすぐに駆け足で近づいてきた。

「ローズマリーが船に乗せられて連れ去られたらしい。」
「船で連れ去られた?」
「横浜の本牧ふ頭からだ。」
「いつのことよ?」
「はっきりしないけど、この2、3日のことらしい。」
「どうしてあなたがそれを知っているの?」
「たった今、警察で聞いてきた。」
「何ですって?」
「船の名前はSALUTE、刑事がそう言っていた。僕はとにかくこれから本牧ふ頭に行ってみる。行ってみれば何か分かるかもしれないし。」
「私にそのことを知らせに来てくれたの?」
「ああ、一緒に行った方がいいと思って、それでとにかくここに来てみたんだ。」
「それなら警察にも連絡しておいた方がいいんじゃない?」
「ダメだ。あいつらは僕を疑っているんだ。僕が結城の手先でローズマリーを誘拐するよう手引きしたと思っている。もう本当に話にならないよ。」
「もしかして、あなた?」
「そうだよ、今、警察から逃げてきたところだよ。」

 あいつは言いづらそうにして先を続けた。

「シャロン、きみも僕のことを疑っていたんだね?」
「六本木で会った日のこと?」
「刑事から聞いた。ショックだったよ。」
「言い訳はしたくないけど、あの時は仕方なかったの。ローズの安全を優先させる必要があったのよ。」
「君は初めて会った時からずっと僕のことが好きだったと言ってくれた。」
「あの日、お蕎麦屋で最初に会った時、私は何度も刑事さん?ってあなたに聞いたはずよ。あなたはその都度、刑事ではないとは言ってくれなかった。そして、店を出ると急に逃出して行ってしまった。あなたにも責任の半分はあるわ。」
「オーケー、じゃあ、僕がそこで君の希望するように刑事ではないと言い切っていたらどうなっていた?」
「たぶん、お蕎麦屋を出た時に私達の方から分かれていたと思う。」
「じゃあ、どうして七夕の夜、僕の部屋を尋ねてきたの?そして、どうしてあの晩僕をあんなに必要としていたの?」

 僕はシャロンの、彼女の病気のことを口に出しそうになって、あやうく言葉を飲み込んだ。

「タカ、あなたは問題を混同して考えている。私はローズの安全を一番の優先にしているから、最初からあなたが刑事でないと分かっていたら、たとえあなたに興味があったとしても、彼女からはあなたを引き離していた。それと七夕の夜、あなたをたずねて行った理由については、あの晩すでにあなたに話しているはずだけど。」

 彼女の答えは明快だった。

「だけども人の気持ちはそんな風にクリアに分別できるものじゃない。ビジネスや外交問題とは違う。」

「タカ、よしましょう。人それぞれの価値観の違いだわ。私達はここまでベストを尽くしてやってきた。お互いに尊敬し合いこの関係を作り上げてきた。あなたの嫌いなそういう外交問題じゃないけど、お互いがあきらめないで粘り強くやってきたはずじゃない?私は、もうそれで十分。あなただってそう思っているから、その気持ちを確かめたくて、今こうしてまっすぐ私に会いに来た。私が信頼に足る人間であること、自分たちが間違っていなかったことを確かめたくって。人が何か行動を起こす時、自分の知らないうちに核心に向かって歩いてしまうことってきっとある。真剣に生きようとすればするほど、そういうことが頻繁に起きるようになる。そして、その核心に触れる体験を重ねるうちに、もう2つの顔は持てなくなってしまう。嘘をついて取り繕うような人生は生きられなくなってしまう。たとえ周りとの間に軋轢が生じてしまっても。そういう風にして今あなたも私も自分に正直に、歩き始めようとしている。タカ、ここで怖がってはいけないわ。ローズもあなたも私たちみんな、絶対いい線行ってるわよ。」

 話し終わるとシャロンは僕の返事を待たずに通りかかったタクシーに手を上げた。

「こんなことここでいつまでも話ている場合じゃないって、あなたもそう思うでしょう?」

 タクシーは西品川のアパートの前で乗り捨てた。シャロンに外で待っているように言ったが聞いてはくれなかった。

「もう警察が来ているかもしれないわ。あなたを被疑者として令状をとって。そうなった場合、私が一緒にいた方が少しはあなたにも有利になるとは思わない?」

 彼女の言う通りだった。彼女に迷惑はかけたくなかったけれども、僕はシャロンを連れたままアパートに入って行った。幸いまだ警察が来た形跡はなかった。僕はバックパックの中に野宿のできる用意をしてキヨシの住処になっている例の本も、もしも警察に拘束されてしまった時のことを考えて一緒に詰めてから、アパートを出た。大崎駅から山手線と京浜東北線を乗り継いで関内に向かった。そして関内の駅前でタクシーをひろった。

「シャロン、あの日ローズが僕に聞きたかったことで何か心当たりはある?」

「YES、それなら硫黄島のことだと思う。ローズの大好きな先生が今入院しているの。その先生の生徒さんもあの戦争のときに硫黄島にいたらしいの。だから、あなたからどんなことでもいいから硫黄島のことを聞いておきたいって言っていたわ。島のことを少しでも早く先生に話してあげたかったのじゃないかしら。」

「その生徒さんの名前とか、何か聞いてる?」
「確か、キヨシ君だったと思うけど。」
「もしかして、本当にもしかして、その先生の名前、北山雪絵さんって言ってなかった?」
「いいえ、古川先生って呼んでいたけど。ちょっと待って、そうだわファーストネームはたしかに雪絵さんだったわ。」
 


 

三辻 孝明(みつじたかあき)
「CUBE IT AUSTRALIA」のCEO(最高経営責任者)。早稲田大学人間科学部環境科学科卒業。1989年より豪州在住。2020年8月10日永眠。

 
 
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