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【連載小説】 硫黄島ダイアリー 第五章『ベイサイドクラブ』3話

筆者三辻孝明さんは、一昨年の2019年8月に癌の告知を受けました。以後、自然療法や抗癌剤治療を経て癌の摘出手術を受けるなど、その約10ヶ月間、「静かに死を見つめながら、久しぶりに文章を残すことができました」と話しています。また「レポートに毛の生えたようなものですが、過去の自分自身の経験を形にできたことは、少し肩の荷が降りたような気持ちです。よろしければ、ご一読ください」と語っていました。

そして、2020年7月16日に当「硫黄島ダイアリー」の連鎖がスタートすることになりましたが、翌月の8月10日、残念ながら三辻孝明さんは帰らぬ人となってしまいました。

闘病生活中に死を見つめながら書き上げられた当連載「硫黄島ダイアリー」ですが、生前の故人の遺志を受け継ぎ、パースエクスプレスでは連載を継続掲載致します。読者やユーザーの皆様には、引き続き「硫黄島ダイアリー」をご愛読頂けると幸いです。

<第五章『ベイサイドクラブ』2話はこちらから>
 
 

 
【連載小説】

硫黄島ダイアリー

三辻孝明

 

第五章『ベイサイドクラブ』3話


 
 ベイサイドクラブの前でタクシーを降り、クラブハウスでSALUTEの係留場所を聞いた。

 私達はすぐに桟橋を係留場所まで歩いたが、舫われているはずの場所に船はなかった。そのかわりに油を引いたような海が見えていた。

 私は底の見えない海面を眺めながら、数日前、ここから船に乗せられただろうローズのことを思った。きっと絶望の闇の中を船は出港したのだろう。ふとさっき見たあいつの部屋の、あの日ローズの残した桔梗を思い出していた。テーブルの上のすっかり枯れた桔梗の花は、今のローズを暗示しているような生気の失せた姿だった。

 ベイサイドクラブはランチの客で賑わっていた。駐車場は、アメリカ製のバンや四輪駆動車で埋まり、そこだけ眺めると絵葉書にある南カリフォルニアのヨットハーバーのような景色だった。私たちはアメリカ人のにぎやかなグループからできるだけ離れてテラスのいすに座った。午後の横浜港が目の前に広がっている。今日もマリンタワーや埠頭が薄く靄に包まれている。その靄なのかスモッグなのか分からない白いカーテンの後ろから、強烈な真夏の太陽が港に浮かぶすべての船に照りつけている。

 その夏も真夏日が続いていた。

「中に入る?」

 あいつにそう聞かれて私はこのままでいいと答えた。

「やっぱり外のテラスは暑いから中のテーブルに移ろうか?エアコンも効いているし。」

 私はどんなに居心地が悪くても表にいたかった。こんなふうに大使館を無断で離れてしまった以上、もうただでは済まされなかったのだ。自分らしくない行動だった。どんなときにも気持ちに流されてはいけないと、外交官として冷静に行動してきたはずなのに、最近、私はときどき自分のしていることが信じられないときがある。もしかしたら私の命の灯はもうそう長くは燈ってくれないのかもしれない。だからどうしても無意識のうちにせきたてられてしまい、冷静な行動がとれなくなっているのかもしれない。

「ここにいた方が、入ってくる船が少しでも早く分かるし、あのアメリカ人の賑やかなグループの近くに座っていることだけは耐えられそうにないから。」

 悲しいくらいに緊張とは程遠い空気がクラブには溢れている。プールテーブルの方からは球をはじく音や、笑い声が連続して聞こえてくる。

 話してもいいかな?そう断ってから、唐突にあいつがキヨシ少年のことを話し始めた。その話は硫黄島から始まる長い話だった。島から本を持ち帰って以来、タカの周りには偶然という不思議が連続しているらしいこと、そして彼らは夢を通して時々コミュニケーションをとることができているようだった。あの遠い昔の戦争を、あいつはまるで自分が昨日体験したことのように話す。そして、その口調にだんだん熱を帯びながら、人の命の尊さや国という単位が作り出してしまう災いの話を繰返す。

「キヨシは、雪絵先生に会いたがっていた。出征の日に国府津の駅できっと帰ってくるのですよ、と言われた約束を守りたくて、雪絵先生の生きているうちにこうして内地に戻ってきた。ここからは僕の考えだけれども、僕たちの目に見えない世界では、こうして君と僕が今いっしょにいることも、ローズマリーがさらわれて船に乗っていることも、何か見えない大きな力が働いているのではないかと感じるんだ。だってシャロン、思い出してごらんよ。僕たちの間には、ずいぶん偶然が続いたと思わない?たとえば、僕がもし離婚をしていなければ硫黄島へは向かわなかったし、そうしたらキヨシと雪絵先生がつながることもなかった。もしもローズマリーに結城の呪縛がなかったら、マリオが僕の隣の部屋で暮らしていようとも、きみたちには何の関係もないことだった。僕が言いたいのは、僕たちはこうなるべくして今、ここで泣きたい気持ちを我慢しているっていうこと。だから、この展開にはきっと続きがある。このままここで終わるわけがない。必ずローズマリーが、キヨシを雪絵先生のところに連れて行くと信じている。そうでなかったらキヨシが45年もの長い眠りの後に起き上がって、僕たちの前に現れるわけがない。シャロン、だからもう、そうやって自分を責めるのはやめてほしい。ローズマリーは今、自分の役割を果たすために船に乗っているだけなんだ。そして僕たちは一人じゃない。みんながつながって生きている。それが見えないだけで、誰かの糸がこんがらがると、それが周りに伝染してさまざまな事柄を引き起こす。良いこともあれば、辛いこともある。でもきみはひとりじゃない。良いことも悪いこともいっしょに喜び、いっしょに苦しむ友達がいる。たとえば僕が今君の目の前にいるように。人間に限って言えば1+1は絶対2じゃない。無限大だよ。僕はそう信じている。」

 私はあいつがおおよそこんな話を話し終わるのを待ってから拍手をした。こういう見えない世界の力、宗教やオカルトがかった話を聞くのは、正直苦手だった。癌患者の病棟には、しょっちゅういろいろな宗教団体のボランテイアが訪ねてくる。彼らは風とともに去りぬに出てくるメラニーのように、献身的で親切だった。でも、私には必要のない思いやりだった。与えられた試練を感謝を込めて受け入れなさい、とやさしく諭される度に、私は心の扉を閉め、自分の殻の中に閉じこもってしまう。

「神は越えられない試練は与えません。」

 ただ放っておいてほしかった。知らないどこかの誰かの慈悲にあふれた微笑など、見たくもなかった。私は、ただ何も悩まないで普通の女の子みたいに毎日を生きてみたいだけだった。人生が50年も60年もこの先ずっと続いていると信じて、何も疑わずに生活してみたかった。

「ねえ、SOAP BOXって知ってる?」
「石鹸の箱?」 
「そう、木でできていてね。立方体に近くて台にするとちょうどいいの。シドニーではよく公園なんかでね、SOAP BOXの上に立って、芝生でくつろいでいる人に向かって演説を始める人がいるの。政治の話とか、教育問題とか、愛情問題とか、すごく真剣に自分の考えを話すの。」
「いきなり演説が始まるんだ?」
「そうよ、それで周りの人はみんなそのまま、芝生に寝っころがったりして黙って聞いてるの。それで演説が終わるとね、2、3人がパラパラと拍手をして、そのおじさんはいつの間にかいなくなるんだけど、私はそういう人のことをON SOAP BOXって呼んでいた。」
「それと今の僕の話したこととどう関係があるの?」
「あなたの話は、私一人で聞くにはもったいないような良い話だった。それでON SOAP BOXを思い出したのかもしれない。」
「話し終わったら2、3人がパラパラと拍手をする話?」
「そう、そういう話。」
「話した後、いつのまにかいなくなってしまうおじさんの話?」
「そう、そういう話。」
「シャロン、もしかしてそれって褒めてくれてるんだよね?」
「もちろんよ、2、3人がパラパラ拍手するんですもの。」
「よかった。」

 私は声を上げて笑ってしまった。あいつもからかわれていることに気がついて、なあんだと言いながらいっしょになって笑い出した。ふたりで笑っているうちに、いつのまにか私はとても素直な気持ちになれていた。テラスで食事をしている人が、こちらに無神経な視線を向けている。でもそのときの私には、もうそんなことはどうでもよかった。

「今の話だけどさあ、こんな風にも考えられるんじゃないかしら。たとえば、あなたが私を助けてくれたあの夜、あなたは前の日の午後、偶然にも川崎で別れた奧さんに出会っている。そして、六本木のお蕎麦屋さんでも、今日だって、道を渡る途中で大使館から出てきた私と、偶然に出会っている。二宮の砂浜で目にした長者丸と書かれた浮き輪の話だって偶然の出会いだし、何か大きな力が、私たちの外で働いていて、こういう偶然の重なりに導かれているとも言えるんじゃないかな?」
「それが、君の苦手な見えない世界のことなのかもしれないし、珍蔵の言っていた硫黄島の呪いということなんだろうか?」
「呪いかどうかわからないけど、私は個人的には、もしもこれが硫黄島の呪いなんだとしたら、そんなに悪い話ではないように思うな。だから、呪いとか、そいう風に考えないで、大きな流れに乗っていると感じた方が、もっと自然に前を向きやすいんじゃないかな。」

「タカ」
「ん?」
「からかって悪かったわ。」
「いいんだよ。僕だって今自分が話したみたいな話、特に宗教の勧誘みたいなのは聞くのも苦手だし。でもね、苦手ついでにもう一つ話させてもらうと、こうして僕たちの暮らしている世界って、数の暴力に支配されてるんじゃないのかなって思えてしまうんだ。」
「数の暴力?」
「そう、あの硫黄島での戦闘自体がそうだったんだ。すごい数の弾薬、すごい数の武器、すごい数の兵隊、すごい数の水や食料を持っている方が、やがて世界を治める側になりそれが正義になっていく。その途中で取り除かれていくたくさんの命や文明を、すごい数の側はマクロでしか考えようとしない、大きい図面の中の一つの出来事としてしか捉えようとしない。何かが欠落した神経のまますごい数の側は走り続けていく。どんどん、どんどん過去のことにして忘れようとしていく。あの島での出来事を知れば知るほど、あそこではそんなことばかりを考えていたよ。」
「わかるわ、言いたいこと。その島で亡くなった一人一人にも命があり人生があった、生きる喜びも生きる悲しみも、一人一人がちゃんと持っていた。それをすごい数の方は民主主義や正義の大義を守るために、一網打尽にしてめちゃくちゃに破壊して振り返ることもなく通りすぎていった。ミクロで捉えるとそういうことになるわね。間違いなく数の暴力は存在しているわ、弱者の痛みなんて弱者になってみなければわからないし、そんなこと知ったこっちゃないというマクロな論理がまかり通っているわ、今も私たちの周りじゅうに。」

「僕は今警察から追われているし、きみも大切な外交官のキャリアに傷をつけようとしている。こういうこともミクロ、弱者の論理だよね、僕たちが正常な社会の約束事から外れなければ良かっただけだから。でもどうなんだろう、僕たちってそういうミクロのことを慈しむために、自分自身がそこから学び吸収していくために生きているのじゃないかな。矛盾しているようだけれども、繰り返される日々の新しいページをめくり続けるミクロの積み重ねのために、本当は生きているのじゃないかな、大義を正義としているようなマジョリティの力、数の暴力ってその反対側にいるように思えてならないんだ、今の僕が叫んでも負け犬の遠吠えにしか聞こえないかもしれないけれども。」

 かもめが、誰もいないテーブルに残ったままのフライドポテトに、騒々しく群がっている。それを見たレストランのスタッフがテーブルの上を片付け始める。

「ねえ、かもめってちょっと白人みたいじゃない?白いし、なんか顔つきもきつい感じがしない?」
「悪かった、また説教じみた話題になってしまって。」
「ううん、そうじゃなくて、あなたの話を聞いていていたらカモメと上陸したアメリカ兵が重なって見えてしまったの。」
「カモメがアメリカ兵?じゃあ、聞くけど、日本人は鳥にたとえると何になるのかな?」

 シャロンは白い歯を見せて笑いながら、やがてハトだと答えた。

「ハト?確かに駅とかにいっぱいいるところを見ていると、なんかサラリーマンみたいだもんなあ。それに比べるとかもめの方が、海にいるし全然かっこいいよなあ。」
「何いってるのよ、私はハトのほうが好きだな。」
「どうして?」
「だってハトのほうが、絶対かもめより乱暴じゃないもん。私、乱暴でがつがつしてる人、嫌いだもん。」
「そうすると、僕はどっちになるのかな?」
「あなた、もしかしてハーフなの?」
「うんたぶん、父は日本人じゃないって、いつか母から聞いたことがあるし。」
「お父さんと会ったことは?」
「たぶんない、覚えていないんだ。横田とか、厚木とかどこかの基地にいたらしいけど。家族の写真とかもないしね。だから、人のぬくもりとか、家庭とかに、小さい頃から人一倍あこがれていたのかもしれない。」
「やっぱりね、ローズに似ているところが、なんか、そういうやつなんじゃないかなって思ってた。ねえ、一つ聞いてもいいかしら?」
「ああ、どうぞ。」
「あなた、ローズのためなら死ねる?」
「どうしたんだよ、いきなり?その、似た者同士だからってこと?」
「はぐらかさないでちゃんと答えてよ。」

 目の前のシャロンは、さっきまでとは違って、もう僕をからかっているようには見えなかった。彼女は、僕がローズに好意を抱いていることをきっと知っている。にもかかわらず、彼女は僕と七夕の夜、一夜を共にして、しかも二度と寝ないと宣言をした。

 もしもそれが全て彼女の病気のためにしたことなのだとしたら切ない話だった。
 


 

三辻 孝明(みつじたかあき)
「CUBE IT AUSTRALIA」のCEO(最高経営責任者)。早稲田大学人間科学部環境科学科卒業。1989年より豪州在住。2020年8月10日永眠。

 
 
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