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【連載小説】 硫黄島ダイアリー 第五章『ベイサイドクラブ』4話

筆者三辻孝明さんは、一昨年の2019年8月に癌の告知を受けました。以後、自然療法や抗癌剤治療を経て癌の摘出手術を受けるなど、その約10ヶ月間、「静かに死を見つめながら、久しぶりに文章を残すことができました」と話しています。また「レポートに毛の生えたようなものですが、過去の自分自身の経験を形にできたことは、少し肩の荷が降りたような気持ちです。よろしければ、ご一読ください」と語っていました。

そして、2020年7月16日に当「硫黄島ダイアリー」の連鎖がスタートすることになりましたが、翌月の8月10日、残念ながら三辻孝明さんは帰らぬ人となってしまいました。

闘病生活中に死を見つめながら書き上げられた当連載「硫黄島ダイアリー」ですが、生前の故人の遺志を受け継ぎ、パースエクスプレスでは連載を継続掲載致します。読者やユーザーの皆様には、引き続き「硫黄島ダイアリー」をご愛読頂けると幸いです。

<第五章『ベイサイドクラブ』3話はこちらから>
 
 

 
【連載小説】

硫黄島ダイアリー

三辻孝明

 

第五章『ベイサイドクラブ』4話


 
「ああ、死ねるよ。」

 どうしてそんなことを口にできたのか、自分でも分からなかった。それはたぶん半分はシャロンに対する満たされない気持ちからだったようにも思う。でも、そう言葉にしてみて、自分の気持ちが定まったことも確かだった。

 シャロンは少しの間、桟橋の向こうの景色を眺めていた。それから静かに口を開いた。

「タカ、まじめに聞いてほしいんだけどね、たぶん、私はもうすぐここからどこか遠くに行ってしまう。もしかしたらもう二度と戻って来れないかもしれないの。私もローズもこの街がほんとうに好きだった。だから二人で悔いのないように精一杯やってきたんだし。でも、私がいなくなってしまったら、そのときローズはどうなるのだろうと思うとね。ふたりでずっといろんなことを越えてきたから。それであなたに聞いてみたかったのかもしれない。」

「残される彼女のことが心配だから、俺に死ねるかって聞いたの?」

「そう、なんでも命がけでしなかったら生きている意味なんてないじゃない?でも、これで少しはすっきりした。」

 そう話す彼女はほんとうに寂しそうだった。

「もしかして、君、病気なの?」
「何言い出すのよ。とっくに知っていたくせに、そういう水臭い言葉は、今はいらないわよ。」

 そのまま、しばらくの間、二人の間には説明のできない沈黙が流れていた。やがて、唐突にシャロンが話し始めるまでの間は、僕にとって永遠に感じられるほどの長い沈黙だった。

「この国は立憲制、で、オーストラリアは陪審制、知ってたかしら?」
「ちょっと、急にどうしたの?」
「法律の話よ。長い年月がたって、両方の民主主義の国の判例にはもう違いがくなっている。日本に死刑制度が残っている以外はね。オーストラリアには死刑制度がないの。その代わりに終身刑。日本と違って恩赦とか絶対にない、何かやらかしたら一生塀の外に出て来れない本物の終身刑になるのだけれども。」
「悪かったよシャロン、俺、何か気にさわるようなこと、きっと君に言ってしまったんだね?」
「そうじゃなくて黙って聞いていてよ。簡単に説明すると日本は国が法律を定めて、それに民衆が従うことによって国を作ってきた国。で、オーストラリアは、始めからそんなに細かい法律がなくて、事件があるとみんなで集まってどうする?って法律を作ってきた国。だから、基本的にオーストラリアでは前例によって判断して法律ができ上がったの。それで、100年以上たった今、両方の国の法律はほとんど一緒にみえるのね、結果としてはね。だけど、この2つの国には大きな違いができてしまっている。つまり、あなたと私にとっては、自分たちのルールは自分たちが決められるって考えられるか、あるいはすでに決まっているのだからそれに従っていれば正しいと考えるかが、一番違っている部分になってしまったの。日本の人たちは生まれた時から法律がきちんと決まっていて、それを守るかどうかで法律に触れている。でも、ほんとうはそういうこと全部を、最初から考えて決めて行く意識を忘れないでいるのって大切な気がしない?上から言われたことを鵜呑みにするのではなくって、自分たちのことは自分たちで決めていく可能性だってちゃんと残っているんだって思える環境って。法律に限らずに、生きていく上での周りに対する根源的な姿勢として、忘れてはならないものだと思わない?」
「言いたいことはなんとなくわかるけど。」
「そう、だからここからは、お互いに平明に意見を出し合って、前例に縛られずにローズのことをあらゆる角度から検証しましょうよ、私たちにとっては掛け値なしに、前例のない初めてのことと向き合ってしまっているわけだし。」

 こんな風に長い前置きがあって、僕たちは事件のことをついに話し始めた。

 シャロンがはじめに取り上げたのは刑事の残した「船は2、3日で戻ってくる」という言葉だった。

「2、3日ということは、早ければ今日の夜にもSALUTEが姿を現すということなのかな?」
「たぶん、高い確率で。でね、船が戻ってきたとしましょう。でもローズが乗っていなかった場合はどう考えたらいいの?たとえばどこかの港に寄ってそこでローズと結城が降りてしまった場合の可能性は?あるいは、海の上で他の船に乗り換える目的で今回の出航を計画していた確率についてはどう思う?そういう場合、ここで私たちが何日待機していても全てが無駄になってしまうのじゃないかしら?」

 かといって、他にどうしたらいいのだろうという考えは、僕の方にもアイデアがなかった。

「こういう考えはどうだろう、たぶん船には珍蔵も乗っている。もしもどこか途中の港でローズマリーが下船したとしても、僕はここに戻ってくる珍蔵に彼女の行方を聞くことができると思う。そのときには珍蔵はちゃんと話してくれると信じている。その上で警察に連絡して探してもらう方法もあるのじゃないかな?でも珍蔵も一緒に途中で船をおりてしまった場合は、もうどうしようもないのだけれども。」
「私は、珍蔵がもしも一緒に乗船していたとしたら、彼の途中下船は高い確率でないと思うな。その理由は彼がSALUTEの管理人を仕事にしているということ。荒崎興業はそのために彼に給料を毎月支払っているわけだし。これはビジネスの話だから、どんな形にしても珍蔵にはきちんと仕事をおしまいまでさせることを考えていると思う。経営者ってだいたいそう考えるものなのよ。自分の支払った元はちゃんと取り戻すんだって考え。」
「じゃあ、珍蔵がちゃんと仕事をしている前提で考えてみるよ。珍蔵とは硫黄島の時に少し仕事の話をしたことがあるんだけれども、船舶の操船免許の話は出なかった気がするんだ。彼は確か自分はプロの潜水士だって言っていた気がする。水中の深いところでいろいろな作業をする仕事らしいんだけれども。だから、もしかしたら珍蔵は船には初めから乗っていないということも考えておかなきゃいけないのかもしれない。もしも初めから潜水士としての珍蔵にお金を払っていたのだとしたらの仮定の話なんだけどね。この港のどこかで船の帰りを待っているとか、そして船が着いた後で、何か彼にも大事な仕事が待っているとか、そういう展開も考えておく必要はあるのかもしれない。」
「でも、どうして長い間ここで隠れていた結城が急にどこかへ逃げ出す気になったのだろう?それはやっぱりローズマリーを手に入れたからということなのかな?」
「結城が組長でもない限り、日本のやくざが組織を上げて女ひとりを拘束するために一年も待つようなことは絶対にない。これはどこかに逃げ出すための航海ではなくて、初めから計画されていた何かのプランの中に、ローズが飛び込んでしまった、最悪なタイミングと考えるほうが自然な気がするわ。」
「そうか、たぶんそうだと思う。だとしたらもともと2日前の日曜の夜に船は出港する予定だった。そこにローズが連れてこられて、ついでに乗船させられたと考えるほうが自然に見えるね。」
「考えるのもぞっとするけど、きっとそうよね。それと今の珍蔵の話はとても興味深い気がする。そうか、彼は潜水士だったのね、何か展開が見えてくる気がするわ。」

 クラブサンドイッチとスパークリングミネラルウオーター、それに豆腐とアボガドのサラダが運ばれてきた。シャロンが皿の上のフレンチポテトをつまみあげる。その細く長い指が、彼女が繊細な神経の持ち主であることを、もう一度思い出させてくれる。食欲などなかったはずなのに食べ始めてみるとライブレッドのサンドイッチは、ことのほかおいしかった。目の前のシャロンは小さく刻まれたアボガドをポテトの先ですくっている。

 それにしても、どうして彼女たちだけがこんなにひどい目に遭わなければならないのだろう。

「繰返すけれども、警察は2、3日で船は戻ってくると言っていた。そして船には結城が乗っている。あなたが硫黄島で会ったときの珍蔵は覚醒剤の禁断症状に苦しんでいた、確かそうよね?」
「間違いなく。」

 荒崎興業は、米軍基地関係の僻地を中心に出入りしている業者だった。米軍基地は誰でも知っていることだけれども、治外法権、日本の警察の手の届かない世界だった。

「私は、結城はデイーラーのひとりに過ぎないと思う。もしかしたらこの航海には、たぶん大きい麻薬の取引が関係している。米軍基地は大使館と一緒で治外法権だから、持ち込もうと思えば麻薬を持ち込むことは簡単だわ。実際に外交官がドラッグを運んでいる事例って多いし。勝手に荷物を開けたりすると外交問題にもなるからそういうことができちゃうんだけど。誰も言わないけれど、こっちも結構いいかげんな世界なのよ。荒崎興業は米軍基地の中の、その治外法権を利用してドラッグの取引をしようとしていた。だから警察は、早い段階で結城を泳がせながら荒崎興業をマークしていた。もしかしたら始めから結城はどうでもよくて、麻薬の摘発が本命だったのかもしれない、そう考えるのは乱暴かしら?それとも妥当だと思う?」
「ああ、すごく高い確率で妥当だと思う。」

 それでは、ここでこうしているより、荒崎興業にこれから乗り込んで行った方がいいのだろうか、、、、

「でも、荒崎興業はあくまでも重機のリースを行っている会社だから、この問題とは別に考えたほうが良いと思うわ。会社をあげて麻薬の取引をしているようには思えないし。むしろ一部の人間が、米軍基地に出入りできることを利用して、暴利を目的に麻薬の取引に手を伸ばした、そう考えるほうが自然だわ。建設機材のリースをカモフラージュにして。」
「ということは、ここだね。」
「そう、その通りよ。ここにどこかで手に入れた麻薬をどさっと持って帰ってくるはずよ。」
「本牧に戻ってくるとして、でも、違う船でってこともあると思う?」
「私は、そうは思わない。だって警察が2、3日で船は戻ると言っていたんでしょう?ということは結城の乗り込んでいるSALUTEが今回の取引に使われることを事前につかんでいたっていうことの証左でしょう?」
「どうしてそう思うの?」
「だってそうじゃなかったら、横浜港に浮かぶ誰かの持ち船がいつ出かけていつ帰ってこようと、麻布あたりの警視庁管内の警察署が、本牧の船なんかに興味を持つわけがないじゃない。違う?」

 シャロンがストローで氷をかき回すのを眺めながら、手川刑事のやせた顔と福本刑事の首のない鍛えた体が目に浮かんだ。やっぱり警察は結城の居場所をつかんだまま、長い間彼を泳がせていたに違いない。

 きっと物事を考える時の彼女の癖なのだろう、シャロンは忙しく目を走らせながら、無意識のうちにつめを噛み始めている。強い西日を受けて、彼女の白いブラウスの中がわずかに透けて見える。透き通るような白い肌が金色に輝いている。

「ということは、今回の出航は結城がローズマリーをさらって海外に高飛びするためのものではなく、周到に用意していた麻薬の取引のためのものだったということになる。」
「そして、いったん積み込んだ麻薬はわざわざ危険にさらしてどこかの港に下ろすよりも、本牧まで持って帰ってきた方が安全に違いない。そのために一年以上も珍蔵が張り付いて周りの様子を確かめていたのだから。今回の場合はそう考える方が自然だわ。その中には持ち込んだ麻薬をほとぼりが冷めるまでこのハーバーの海底に隠しておく潜水士の仕事も含まれているのかもしれないし。」
「それならなおさら、船はここに戻って来るということで決まりですね?」
「ええ、今はそう信じられるわ。」
「シャロン、ついでに聞くけどどうして麻布署の刑事は僕のことを疑っていたんだと思う?」
「ひとつには、あなたが硫黄島で珍蔵と接点を持っていたこと。それとたぶん結城の手足になっている人間が、まだ東京にいると警察は考えているのじゃないかしら。だからあなたに限らず、少しでも結城、あるいは珍蔵に関係している人間には、徹底的にマークをつけていたのじゃないかしら。」
 


 

三辻 孝明(みつじたかあき)
「CUBE IT AUSTRALIA」のCEO(最高経営責任者)。早稲田大学人間科学部環境科学科卒業。1989年より豪州在住。2020年8月10日永眠。

 
 
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