筆者三辻孝明さんは、昨年の2019年8月に癌の告知を受けました。三辻さんは以後、自然療法や抗癌剤治療を経て、癌の摘出手術を受けた10ヶ月間、「静かに死を見つめながら、久しぶりに文章を残すことができました」と話しています。また「レポートに毛の生えたようなものですが、過去の自分自身の経験を形にできたことは少し肩の荷が降りたような気持ちです。よろしければ、ご一読ください」と語っていました。
そして2020年7月16日に当「硫黄島ダイアリー」の連鎖がスタートすることになりましたが、翌月の8月10日、残念ながら三辻孝明さんは帰らぬ人となってしまいました。
闘病生活中に死を見つめながら書き上げられた当連載「硫黄島ダイアリー」ですが、生前の故人の遺志を受け継ぎ、パースエクスプレスでは当連載を継続掲載致します。読者やユーザーの皆様には、引き続き「硫黄島ダイアリー」をご愛読頂けると幸いです。
<第三章『SALUTE』3話はこちらから>
【連載小説】
硫黄島ダイアリー
三辻孝明
第三章『SALUTE』4話
「三辻さん、知っていることを隠していらっしゃるようですと、あなたも今回の覚醒剤の件との関わりを疑われることになりかねません。必ず話してください。少し休憩をしましょう。写真を置いておきますから、何か思い出したらそのドアをノックしてください。」
手川刑事はそう言い残すと静かに部屋を出て行った。
この部屋に入ってから半日が過ぎようとしている。僕が珍蔵を知っていることは、きっともう調べがついているに違いなかった。机の上には5枚の写真が残されていた。スポーツシャツの色白の男は、やはり僕を突き飛ばして逃げた男のように思えた。状況からして、スキンヘッドと逃げた男はつるんでいたに違いなかった。そして、怪我をした黒い髪の外国人の女性も、壁越しに聞こえていた話し声からすると、男たちと知り合いだったことに間違いはなさそうだった。
そして、珍蔵だった。
こんなところでいきなり珍蔵が出てきてしまったことを僕はどう受け止めていいのか、正直見当もつかなかった。僕にとって硫黄島の珍蔵は、口は悪いけれども優しくて頼りになって、いつもなんだかんだ僕を守ってくれる、かけがえのない人だったから、その思いはなおさらのことだった。
そのままどうしていい分からずに珍蔵の写真を睨んでいると、30分ほどした頃、手川刑事がもうひとりの刑事を連れて部屋に戻ってきた。新しく入ってきた方の刑事は、見るからにマル暴対策系のがっしりとした体格の男で、黒いシャツに銀色のネクタイをしていた。何処かのクラブのマネージャーのような風貌だった。刑事は僕の向かいに座りながら体に似合わない甲高い声で麻布署の福本です、と名乗った。
「どうですか。何か思い出しましたか?」
手川刑事は椅子には腰掛けずに、福本刑事の背後に立ったまま僕を見下ろしている。どう答えていいか分からない僕は、ただ黙ったままだった。
「あんたねえ、そうやって突っ張っていると、後でヤバいんじゃないの?知っていることがあったら今のうちにきちんと話しなさいよ。そうすりゃ、すぐここから出られるんだから。初めから誰もあんたのことなんか疑ってないんだからさあ。」
福本刑事は器用に右手のこぶしの上で鉛筆を回しながら続けた。
「あんたは事件の夜、警察に届けなかった。翌日の現場検証の時も、あんた隣にいたんでしょ?なのに、まるっきり捜査に協力しなかった。それにこの4ヶ月、どこへ行ってたのよ?」
「九州です。」
「その前は硫黄島、今度は九州。まるで逃げ回ってるみたいじゃないのよ?」
「硫黄島と九州では会社は同じじゃありませんが、遠隔地の作業を担当しているだけです。」
「聞いたよ。別れた女房とばったり会いたくないから、硫黄島に行く時も荒崎の社長に遠くへ飛ばしてくれって泣きついたんだろ、あんた。」
警察は荒崎興業の社長とも、もう話をしたようだった。
「荒崎興業という会社の名前、知ってるよね?」
「硫黄島の時に、面接に行きました。その後の6ヶ月をお世話になった会社です。」
「さっきの写真の中に荒崎興業の社員がひとりいたね。あんたはそれを知っている。違うの?」
「三辻さん、お願いしますよ。これ以上黙っているとあなた自身の問題になってしまいますよ。」
手川刑事の声だった。
結局、僕は珍蔵のことを話してしまった。ベラベラあることないこと話したわけではなかったけれども、後味の悪い思いを引きずりながら夕方までかかって長い調書に協力をさせられた。その調書には、僕と隣人だったスキンヘッドとの日常の関係、硫黄島での珍蔵と僕自身の関係など、かなり細かいところまで警察の調べていた裏を取った形で記述されていった。やがて書類の作成が終わると福本刑事だけが部屋に残った。
「三辻さん、これはね、覚醒剤と暴行傷害で追っている事件なんですよ。だから、何かあったらこれからは、すぐに教えてください。逃げている結城ってね、けっこう前があるやつなんですよ。危ないやつなんです。わかりますか?だからこれからはあなたが自分で解決しようなんて、ばかな真似は決して起こさないでくださいよ。それとね、お隣さんは今服役しています。まあ前科があったんでね、あと4年は出て来られないでしょう。写真の外国人さん、2人とも暴行傷害の被害者です。この人たちは覚醒剤には関係しておりません。結城という男はね、広域暴力団の構成員でした。あなたの知り合いの山城もたぶん似たような経歴のはずです。」
珍蔵の苗字は山城というらしい。
「ひとつ聞いてもいいでしょうか?」
煙草に火をつけていた福本刑事がどうぞと頷いて見せた。
「どうして、こんなに月日がたってから、僕を調べようと思われたのですか?」
「そうね、事件があってから半年だもんね、不自然だよね。調べるんなら、事件のあった9月にあなたの方だって声かけてほしいよね。そうすればもっと調べも簡単だったよね。」
福本刑事は煙を吐きながら続けた。
「あなたの隣人だった片品たかしの手紙ですよ。片品がね、刑務所から外国人さんにね、さっき写真にあったでしょ?メガネをかけてた方の。手紙書いたんですよ。その中で、突込みがあったことを詫びたいたわけ。レイプね。ああいう場所からの手紙は、警察は全部目を通すんですよ。それで、あの外国人さんにもう一度来てもらって話してもらったら、あの晩、飛び込んできた刑事が裸足だったって言うんですよ。裸足に靴つっかけてたって。それで、ああ、これは近所の人なんじゃないかってピンと来たんですよ。それが先月でしたから。ところが、あなたは遠くの九州でしたっけ?クロネコの現場に助っ人で行っていて留守だった。」
「それでは、その外国人の直接レイプされた被害者の方も、手紙で分かるまでは僕のように警察には届け出なかったわけですか?」
「まあ、あれですよ。こういう場合ね、被害者の女性が黙っちゃうことって多いんだよね。女の子の場合は特に忘れたいっていうのもあるだろうしね。」
麻布署を出ると、すぐに六本木の交差点だった。夕方の六本木の街に愛着を感じたことは今までに一度もなかったように思う。街路樹がない上に、交差点の真上を首都高の橋桁が大きく覆っていて、埃っぽく灰色で、車の騒音も酷く、なんでこんな薄汚く騒々しいところが人気なのだろうと思わざるをえないのだ。今日のように嫌な思いをして警察を出た直後などは、その嫌な気持ちが自分でも抑えられないくらい大きくなってしまう。僕は本当にこの東京という街が好きなのだろうか?同じ夕方でも、硫黄島の今頃は見事な夕焼けが島全体を覆っているはずなのである。やはり自分が東京に戻ってきたこと自体が、大きな間違いだったのではないのだろうか?実際に自分には関係ないはずの隣人の痴話喧嘩で、こんな嫌な午後を過ごさなければならないくらいだから、そんな風にネガティヴに考えてしまうことも仕方がないように思えてしまう。
信号を待ちながら、お腹がなり始めている。そういえば、キヨシ少年の夢に続き管理人さんに起こされたことで、すっかりバタバタしてしまい、今日一日、朝から何も食べていないことを思い出した。僕は考えのないままとにかく早く何かを口に入れたい一心で、交差点の向かいにある立ち食い蕎麦屋に入っていった。
夕方の蕎麦屋はそこそこ混んでいた。食券を買い、奥のカウンターで蕎麦を待ちながら、今さっき聞いたばかりの珍蔵の素性のことを改めて考え始めていた。硫黄島で最初に会った時、すでに珍蔵は結城のことを知っていたのではないだろうか?あるいは旧知の間柄で、どこかにすでにあの男をかくまっていたのかもしれなかった。もしもその考えが当たっているのだとしたら、僕の中のヒーロー、珍蔵は実は本当に正真正銘のやくざだったということになってしまう。女の人を本気で殴ってレイプするような人間を仲間と考えるような、僕には理解できない面を珍蔵はもった男ということになってしまう。警察の説明を全部信じたわけではなかったけれども、事実は事実としてきちんと受け入れる気持ちの準備だけはしておかなければ、ならないような気がした。
そして、まだ会ったことのない写真の中の外国人の女性。美しい人だった。刑事の話が事実だとすると、あの晩、体当たりして出て行った男にひどいことをされたらしい。そして、その友達も同じ目に遭いそうになっていた。偶然とはいえ、そこに飛び込んで助けたのが僕だったということになる。
気がつくと、僕という全く関係のないはずの人間が、この事件の登場人物全員とつながりを持ち始めている。
硫黄島をはさんで、やはり僕の周りが変わりはじめているのは事実だった。島のものを持ち出すととんでもないことが起きると、あそこで何度も周りから忠告を受けていたにもかかわらず、僕はキヨシ少年の本を持って帰ってきてしまった。今更後悔しても始まらないことだけれども、このままでいいのだろうかという不安は抑えても大きくなっていくばかりだった。
離婚をしただけでこんなにへこんでしまう程度の自分にこれから先、一体何ができるというのだろう?一体どんなカーマが待っているというのだろう?
気がつくとカウンターの上に置いた僕の食券の番号を繰り返し呼ばれていた。蕎麦を受け取りに行き、また同じ場所に戻ってみると店の中は入った時よりもずいぶん混み始めているようだった。人に押されたらしく誰かが僕の背中に強くぶつかったので振り返ると「Sorry」という声が返ってくる。外国人さんか。ああ、ここは確かに六本木なんだよなと、空腹の頭で改めてそんなことも考えていた。
*******
その日、わたしは久しぶりにシャロンと待ち合わせをした。シャロンは検査の関係で4週間ほどシドニーに帰っていたから、会うのはソウル以来だった。4時にキンディでの後片付けを済ませると、歩いて六本木に向かった。少し早かったのでWAVEにより、エスニックのレコードを探しながら時間を過ごすことにした。待ち合わせた場所は交差点の角の誠志堂だった。
シャロンが店に来たのは、約束の時間を10分ほど過ぎた頃だった。シャロンは白いブラウスに黒のノースリーブのワンピースを合わせて、いつものようにコンバースのスニーカーを履いていた。
「朝から何も食べていないって言ったら信じてくれるかしら?」
それが2ヶ月ぶりに会う彼女の、彼女らしい挨拶だった。少し会わないうちにまた痩せたようだけれども、彼女は元気そうだった。
「私あと一分ももたないわ。ねえ、付き合ってくれるでしょ?」
わたしたちは店を出ると並びの蕎麦屋に入った。店は夕方の早い時間にもかかわらず、かなり込んでいた。奥に進み、カウンターの場所を押さえてから食券を買うことにした。
「それで検査の方はどうだったの?」
「病院の方はもう慣れているし、万事うまくいってる。心配しないで。」
「じゃあ、キースとのこともうまくいったのね?」
シドニーに帰ったシャロンのもう一つの目的は、昔の彼とよりを戻すことだった。
「それがさあ、ぜんぜん面白くないのよね。毎晩、決まった時間になると手が伸びてきて、したいことしたらビール飲んでさっさと寝ちゃうんだもん。同じワンパターンのバンバンバンよ。ずっとそれの繰り返し。これじゃまるでエスコートの女を部屋に呼んでるのと一緒じゃない?私はキースのトイレじゃないっていうの。それでキースが寝た隙に逃げ出してきちゃったんだけど、それだけじゃわざわざシドニーまで戻った自分があんまりみじめだから、仕返しにあいつのランチにしっかりいたずらしてきてやったわ。」
シャロンは仕返しにサンドイッチの間にウンチをはさんできたのだと言いだした。
「もちろん、私のやつ。」
「えーっ、それ絶対作り話でしょ?」
「まさかぁ、結構作るまでが大変だったんだから。」
そしてシャロンはすっきりしたわと言いながら、思い切りのびをするポーズを作って笑い出した。その時、彼女の背中が誰かにぶつかった。シャロンは「Sorry」と後ろに声をかけてから、また話の先を続けた。
「もちろん、ランチ作っておきましたって手紙も添えたから、あのばか、ひょっとしたらかじったと思うよ。」
「ねえシャロン、それ、本当にほんとうの話なの?」
「そう、それで匂いでばれないように、ちゃんとタッパに入れて冷蔵庫にも入れてきたんだから。あいつばかみたいに酔っ払ってたから、夜中に目覚まして、腹減ったとかつぶやいて絶対かじったわよ、100%口に入れたわよ。」
わたしたちはそこで同時に噴出した。もう限界だった。それに気がついて慌てて吐き出したときのキースの顔を想像して、涙が出るくらいに笑い転げた。かなり騒々しかったと思う。
「ねえ、あなた、こんなこと話していて誰か英語が分かる人が近くにいたら大変だと思わない?」
私がそう言うと、彼女はいたずらっ子のような顔をして後ろを振り返った。たぶんちょっと調子に乗りすぎたくらいに思って、周りを確かめたつもりだったのだと思う。でも、その時シャロンは声をあげながら口を押さえた。何か、とても驚いた様子だった。それはもう、さっきまでの調子に乗っていたばか話の続きには見えなかった。やがて彼女が後ろの男に話しかける声を聞いた。
「Detective!あのときの刑事さんですよね?」
少しの間、沈黙が流れた。それから後ろの男は困ったような表情を見せながら、あきらめたようにうなずいて見せたのだった。
********
空いていた僕の後ろに入ったその女性たちは、その場の雰囲気に似合わない声を上げて騒いでいた。僕は箸を割りながら何気なく声の方に顔を向けた。そして、息を呑んでしまった。なぜならついさっきまで、麻布署の机の上で見ていた写真の女性が2人、すぐ後ろに立っていたからだ。その刹那の、僕の不自然な態度が伝わってしまったのだろう。後ろの女性も何か気になったらしく、話の途中でこちらを急に振り返ったようだった。忘れもしないあの晩、怪我をして逃げていった黒い髪の人だった。僕と目が合うと、はじめに彼女は口を押さえた。そして、次の瞬間叫び声を上げたのである。
「My god! I can’t believe this.」
たぶんそんなことを叫んでいたように思う。彼女は勢い込みながら、あの時の刑事さんですよねと言った。僕はその勢いに圧倒されてしまった。言い訳に聞こえてしまうのだけれども、一日かかってやっと警察を出たばかりで、本当にクタクタだった。もう誰とも口を利く余裕がなかったのだ。お腹も空いていたし、やっとたどり着いた天ぷらそばが目の前で香ばしい柚子の香りの湯気を上げていたところなのだ。僕はまさに割り箸を割って、そのそばを口に入れようとしていた瞬間の出来事だったのだ。それでもあの晩のことをきちんと説明しなければいけないと言われてしまうのだろうか?でも、僕にはもうその気力も何も残ってはいなかった。
僕は彼女の言葉に力なく頷いてしまった。
僕を見上げる彼女の顔がみるみる興奮で赤くなっていく。周りにいた他の客が振り返って見ているのもかまわずに、早口の英語で連れの女に叫ぶように説明を始めている。僕は目の前に置いた蕎麦を食べるに食べられず、箸を持ったまま彼女たちの様子を見守る以外にどうすることもできなくなっていた。
やがて説明が終わったらしく黒い髪の女性が振り返った。
「あの時は助けていただいたのに、お礼も言わずにいなくなってしまって本当に失礼しました。まだ、怒っていますか?」
まずいことに、この人はまだ僕のことを本当の刑事だと思っている。
「怒ってなんていませんよ。それよりあなたこそ元気そうで何よりです。」
「Great!Great!ねえ、それならこれから私達に付き合ってくださいますよね?」
こんな会話を繰り返していると、本当に彼女は僕のことを警察の人間だと確信してしまう、そして取り返しのつかない事態をきっと導いてしまう。そこまでは想像できたのだけれども、僕にはもう、この怒涛のような流れに抗う力は残っていなかった。
僕は、夢遊病者のように力無く頷くと彼女たちに続いて店を後にした。店を出てみると六本木の街は、いつものように夕方の人と車で溢れかえっていた。街の混乱を極めた喧騒が一度に襲ってきたような感じだった。黒い髪の女性は僕のそんな様子には構うこともなく、流していたタクシーに素早く手を挙げた。
「運転手さん、赤坂の砂場、お願いします。」
タクシーに乗り込みながら、黒い髪の女性が前席の運転手に告げている。
「砂場って、蕎麦屋の砂場さんでいいの?」
運転手の初老の男性がその言葉に答えている。
「ええ、国際ビルの裏通りにあるお蕎麦屋さんです。」
彼女の話す日本語は完璧だった。彼女たちはちょうどタクシーに乗り込んだところだった。後ろの席に3人で座れるよう、僕のために入口のスペースを空けて待ってくれている。
「いいですか。僕はあなたの信じているような刑事なんかじゃない。ただの運転手です。ごめんなさい、ここから先にあなたたちとお付き合いする理由はもう僕の方には何もないのです。」
僕はそう言い残すと、夢中で地下鉄の入り口に向かって走り出した。そして、何で逃げ出したのかも分からないまま、もう二度と後ろを振り返ることはなかった。
三辻 孝明(みつじたかあき) 「CUBE IT AUSTRALIA」のCEO(最高経営責任者)。早稲田大学人間科学部環境科学科卒業。1989年より豪州在住。2020年8月10日永眠。 |
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