筆者三辻孝明さんは、昨年の2019年8月に癌の告知を受けました。三辻さんは以後、自然療法や抗癌剤治療を経て、癌の摘出手術を受けた10ヶ月間、「静かに死を見つめながら、久しぶりに文章を残すことができました」と話しています。そして「レポートに毛の生えたようなものですが、過去の自分自身の経験を形にできたことは少し肩の荷が降りたような気持ちです。よろしければ、ご一読ください」と。
<第一章『硫黄島』2話はこちらから>
【連載小説】
硫黄島ダイアリー
三辻孝明
第一章『硫黄島』3話
出口近くの展示品の中に当時の上官が書いた日誌が残っている。そこには米軍の攻撃の始まる前、夜な夜な浜に出て歌を歌う守備隊の少年たちの事が書き留められている。何もないこの島で少年たちを支えていたのは夜、陣地を抜け出しては浜で歌を歌うことだった。きびしい軍規の中でそれを止めることをしなかったのは、生きて帰れない少年たちの運命を知る上官の、人として、子を持つ親として、あるいは日本人の大人としての、せめてもの思いやりだったのかもしれない。
その晩も僕はひとりで風呂場にいた。裸電球の下で洗濯も終わり、酒と博打の騒がしい宿舎に戻る気にもなれずに湯船の中でじっとしていた時だった。誰かが入り口の戸を引いて脱衣所に入ってくる気配がする。今頃誰なのだろうと思いながらそのままにしていると、いつまでたっても人の入ってくる様子がない。天井から落ちる水滴が切るような静けさを作り始めている。僕は心を決めて入り口を振り返った。そして、そこに茶褐色の制服と直立不動のままこちらの様子をうかがう小柄な兵隊を見たのである。
遠くでなにか金属のこすれるような音がする。その耳障りな音は機械の反復運動のように規則正しいリズムを刻んでいる。誰かが刃物を研いでいる、そう思った刹那、目が覚めた。暗闇に目を凝らしているうちに僕は部屋の中で横になっていることを知った。隣から誰かの寝息が聞こえる。腕時計の針が深夜の2時をさしている。どうやら部屋に戻っているようだった。
僕は何か夢でも見ていたのだろうか。
8時過ぎにひとりで風呂場に行き、洗濯をして9時までは確かにあそこにいたはずである。だがその先の風呂場からここまでの記憶が消えてなくなっている。一体何が起きたのだろう。僕は、あのまま服を着て夢遊病者のように部屋に戻り布団をかぶって眠ってしまったのだろうか。それとも誰かが来て、こうして部屋まで運んでくれたのだろうか。一体どうなっているのだ。
耳を澄ますと夢で聞いた金属をこする音が珍蔵の布団から、確かに聞こえてくる。布団の上に正座をした珍蔵は刃物を研いでいるようだった。なぜ夜中にそんなことをしているのだろう。打ち寄せる波が砲弾の破裂する音のように繰り返し重く低くとどろいている。昼間見たあの砂浜はどこまでも黒々と光りながら波に洗われていた。その浜は何万人もの兵隊の生き血を吸った砂でできているはずだった。枕元でがさがさ這いまわる音が聞こえ始めている。廃材の置き場にいた黄褐色のさそりが思い浮ぶ。あるいは赤黒い、あの巨大なムカデだろうか。斉藤は何も知らないで規則正しい寝息を立てている。珍蔵の刃物を研ぐ音もさきほどと違わない。僕はそのとき自分がどれくらい恐ろしいところに来てしまったのかを知った。
ここでは自分の目と鼻の先を猛毒のさそりやムカデが徘徊し、真夜中に刃物を研ぐ男や死んでからなお立ち続ける兵隊が当たり前のように存在している。僕は激しい動悸を覚えた。あせっても悔いてもどうにもできないことはわかっていた。けれどもこの島を過ぎていく時間には、内地でのそれとは明らかに違う何かとげのような物が潜んでいた。そのとげが目を覚ませ、ごまかすなと伝えようとしているのだろうか?あるいは僕がそのとげに触れるたびに腐った膿が出て、やがてこの停滞から蘇生させてくれるとでもいうのだろうか?
翌日は、昼前からまた雨だった。午後の作業は中止と決まり食堂で昼食をとっていた作業員の間にも緩んだ空気が漂い始めている。そんな中で珍蔵が以前話していた燻製が2体出てきたと、2号室の男が話し始める。
「どこじゃい?」
「滑走路の拡張工事現場よ。」
「ふん三辻よ、おのれはとことんついているらしいな。」
僕は返事をしなかった。昨晩の風呂場でのことが気持ちの中に錘のように残って、それどころではなかったのだ。この島にもうこれ以上かかわりたくはなかったし、一刻も早くここから脱出したかった。だから燻製になった兵隊の遺体など見たいわけもなかった。
「あとで見に行ってみるか?」
そう話す珍蔵もひどく憔悴している。珍蔵は僕の来る少し前にここに戻ってきたと聞いている。見たところ島に帰ってからはずっと水や果物以外口にすることもなく、亜熱帯の炎天下で働き続けている。人目を避けるためなのか昼食の時も作業現場に残り、夜もひょっとしたら毎晩刃物を研ぎ続けている。でも、げっそりと痩せた珍蔵の様子に気づいているのはここでは僕ひとりだった。現場監督も他の作業員も、珍蔵さんの「断食道場」とか勝手に名前を付けて、かえってそんな彼のストイックな態度をあがめている様子なのだ。重機の運転手はこういうところでは一般の作業員に比べて立場が上になるものだからその分を差し引いても、みな珍蔵が亡くなった兵隊の供養のために断食をしていると信じている。
「なんじゃい、さそりか。」
昼食後、腹ばいになって下駄箱の奥をほうきで探っている時のことだった。いつのまに外階段を上がって来たのか珍蔵が後ろに立っている。その珍蔵は入り口の畳の上に腰をおろしながら新聞紙にくるまれた包みをほどきはじめる。
「まあ、じっとしとりゃ、刺されることもないじゃろ。」
新聞紙の中身は例の刃物だった。
「海兵隊の使っていた銃剣よ。日本軍と比べると素材がぜんぜん違う。」
手間ひまかけて磨かれた刃物は鏡のように光り輝いている。
「まさかずっと研いでるんじゃないでしょうね?」
話しながら僕は語尾が震えはじめるのを感じた。
「ああ、ずっとだ、悪かったな。」
珍蔵は水玉の湯飲みに紙パックに入った日本酒を注ぎ始めた。
「珍蔵さん、あなたシャブ中でしょう?」
「なんじゃい、いきなり。」
なぜ急にそんな事を口走ってしまったのか自分でもわからなかった。
「友達がそうでしたから。健二はシャブを続けると幻覚が見えて怖くなるって言ってました。佐川急便のターミナルで働いていたんです、ずっとひとりでした。夜間の作業員だったんです。」
「健二?」
「一輪挿しの耐熱ガラスの容器から毎日夕方になるとあぶって吸うんです。そうするとシャキっとして一晩中ロボットみたいに荷さばきができるんです。健二は10年間、そうやって静岡にあるトラックターミナルで働き、そして命を落としました。最後は水しか受け付けない体になっていました。」
「その健二とおれとどう関係がある?」
「あなたは見たところ何も食べていないし水ばかり口にしています。夜も何かにおびえるように一心に刃物を研いでいる。」
「銃剣じゃ、刃物いうな。」
「健二は言っていました。禁断症状が起きると光が怖くなる、ものが食べられなくなるって。それで水だけ持って押し入れに何日も籠るのです、ちょうどあなたが毎晩何かから逃げるように銃剣を研いでいるように。」
「おれがいつ押入れに籠った?おれがいつ何かから逃げた?さそりが恐くないからいうて、おのれ、調子に乗るなよ。」
「調子に乗って話しているわけじゃないです。サソリは今でも怖い。今も下駄箱の隅や長靴の中を調べていたくらいですから。でも、薬物で命を落としたら、元も子もないじゃないですか?健二の二の舞をこんなところまで来て見たくないだけです。おせっかいなのはわかっているつもりです。」
珍蔵は何も言わなかった。しばらく黙ったまま座って湯のみの冷や酒を飲んでいたがやがて何も言わずに部屋を出て行った。話はそれきりだった。そしてその後半年の間、珍蔵とは同じ部屋で暮らしたのだが、珍蔵と僕は互いに二度とその話に触れることはしなかった。
*****
湯船に並んだ斉藤が腰を浮かすように持ち上げている。どうも斉藤のペニスには真珠が埋められているらしい。
「あんた、おくさんに逃げられたの?」
斉藤は島の生活に馴染めない僕をなぐさめようとしているようなのだ。
「ねえ、これちゃんと見てよ。」
斉藤が腰を浮かせる。この島に来る前はマグロ船に乗って、世界を回っていたのだそうだ。
「自分で入れたよ。」
上陸したハワイで手に入れたという真珠は、ペニスの途中に赤黒いしこりとして隆起している。セクシーとはほど遠い眺めだった。
「パールハーバー。」
斉藤はそうつぶやく。ハワイで買った真珠だから冗談のつもりなのだろうか。僕がどう答えていいかわからずにあいまいな笑いを浮かべると、となりの斉藤も歯茎を見せて笑い始めた。
「痛くなかったの?」
僕の質問に斉藤は視線を落としながら首を激しく横に振る。もてたかっただけなのかもしれない。真珠さえ入れれば女はみんな泣いて喜ぶとか、きっとマグロ船の連中にそそのかされたのかもしれない。なんだかかわいそうな気がした。その斉藤は帰るところもなければ、家族もいないという。中学生の頃、唯一の肉親だった母親を失い、東京に出て仕事を転々としながら成人を迎え、マグロ船を降りてからはずっとこの島で働いているのだそうだ。
「でも、たまには横須賀に行くんでしょ?」
斉藤はまた首を横にふる。
「真珠まで入れたのにどうして行かないの?」
冗談のつもりでそういうと斉藤は実は痛くて、それどころではないとムキになった。
「もしかしてそれ、普段から痛いの?」
普段は痛くないけれども、熱を帯びて硬く大きくなった時に痛くなるらしい。
「だからちっとも楽しめない、まるで拷問なんだ。」
「そうなんだ…」
「入れた場所が悪かったのかな…」
斉藤は湯船の中の腰を浮かせて、またその部分を見せようとする。斉藤から僕が頼みを打ち明けられたのは、翌日の作業の後トラックの荷台に並んで揺られている時のことだった。
「あんたさあ、いつか横須賀に帰るときおいらの友達も連れてってやってくんないかな。」
斉藤のいう友達とは、斉藤が大事にしている本のことのようだった。
「あの本が友達?」
「うん、どうしても内地に帰りたいって。」
「誰がそう言ったの?」
「本の持ち主だよ。ほら、この間の夜あんたを部屋まで送ってくれたキヨシだよ。」
斉藤はあの夜のことを話し始めた。戦争資料館から盗んで来たのだと言う斉藤の大事にしている本は漱石の草枕だった。斉藤の話によるとその本にはあの夜の少年兵の霊が宿っていて、本は硫黄島に出征する際、少年兵が大切な人から渡されたものなのだそうだ。見つかると没収されてしまうかもしれないからと、荷物のそこにしまって持ってきたのだという。
「キヨシ、出征の時はまだたったの16だったんだよ。」
斉藤がバックパックから本を取り出す。手に取って裏返すと本のうしろにカタカナで名前が書かれている。サカマキヨシと読める。
「16だったって…、珍蔵さんからはこの島のものは持ち出してはいけないときつく言われている。それが島の掟だと。もしも持ち出したらとんでもないことが起きると島に来た初めの頃にも念を押されている。君だってそのことは一緒に聞いていたでしょう?」
「珍蔵は面白半分に持ち出しちゃいけないと言っているだけだよ。」
「それじゃあ聞くけど、この島では何のために毎晩部屋の入り口にコップの水を並べてから寝るの?のどの乾いた兵隊さんが飲みにくるからでしょう。何のためにこの島では、サンダルを履いて表を歩いてはいけない掟なの?サンダルの音に兵隊さんが宿舎までついてきてしまうからでしょう。ここは今でもたくさんの霊魂が、浮かばれずにいろいろなものに取り憑いている。だからここのものを島から持ち出すなんてとんでもない話なんだよ。」
斉藤は黙ってしまった。後味の悪い会話になったけれども、自分にはどうすることもできない頼みだった。
その晩の出来事である。僕は少年サカマキヨシの夢を見た。夢の中で少年は縄で結わき上げられながら暗い洞窟の隅に横になっている。少年の近くには軍刀で体を支えるように地面に座る上官らしい男の姿が見える。おととい食堂で誰かが話していた通りの2体のミイラの情景だった。
「おのれ、今度陣地を離れてみろ、その場でぶった切るからな。」
男の声は間違いなく珍蔵だった。
「自分は偵察に行こうとしていただけであります。」
「ふん、みんなそうやってうまいこと理由を付けては投降して行くんじゃい。おのれだけ助かろ思て、偵察言うんなら証拠を見せてみい、証拠を。」
「自分は通信兵であります。かばんの中に後方に連絡するための通信機材が入っております。」
上官が少年のかばんの中を改めると確かに通信機材が出てきた。上官は渋々少年の縄を解いた。
少年は一例してかばんを受け取ると洞窟の入り口に向って歩き始めた。
「待てい。おのれ、どこの指令で動いておる?」
「玉名山陣地、千田旅団であります。」
*****
亜熱帯の空気の下で幾千万の失われた魂の群れが、身動きの取れないままの停滞を地中深くに強いられている。それを知っていながらその上の地面にコンクリートを流し、可変翼の戦闘機F16が降りられるために滑走路を拡張する。この島の作業員はそういうご法度を繰り返しながらここでの生業としている。僕が島を離れたいという強い希望を伝えた時、現場監督は交代の作業員が来たら直に帰れますよと約束してくれた。だが、2ヶ月待ってもその交代はやってこなかった。僕が斉藤から少年の書いた手紙を渡されたのは、滑走路の拡張工事が一部終わり可変翼の戦闘機F16が三沢からやって来るようになった4月の終わりのことだった。手紙は戦時下のものなのだろう、祖末な便せんに鉛筆で一字一字丁寧に書かれていた。
拝啓、
自分が硫黄島に配属されたのは、昭和十九年十二月のことでありました。自分は、神奈川県二宮町釜野で、昭和三年九月に三人兄弟の末っ子として生を受けました。兄は市谷の陸軍士官学校を卒業後、ハルピンにある関東軍総司令部に勤務しておりました。兄は自分とは十も離れておりましたし、二宮では学校総代を務めたほどの人でしたから、たまに帰郷した際にも大変多忙で自分と話をするような機会は、めったにありませんでした。年が離れていたせいか兄は末っ子の自分を息子のように可愛がってくれました。自分はそんな兄の話を聞くのが好きでありました。ハルピンの街には夕方にはガス灯がともり大変美しいことや、ロシア革命のために逃げてきたたくさんの東欧人が居住していること、オペラが上演される日には、着飾った婦人たちがガス灯の灯った街の目抜き通りに馬車を連ねることなどを話してくれました。
兄の勤める関東軍総司令部は広大な敷地に囲まれ、例えバスや乗合馬車に乗って通りかかっても、乗客は建物に向かって起立して頭を下げる慣わしになっていると言っていました。満州は広いというのが兄の口癖でした。満鉄(満州鉄道)で旅をすると3日も汽車に揺られているのに、ずっと地平線が続いているのだそうです。ただ、満人に対してはひどい扱いをしていたようでした。例えば、真冬の街頭に煙草を求めて列を作る満人を、後から来た日本人がいきなり列の先頭に割り込んでしまうということは、日常だったそうです。日本人はいくつでも煙草を買えたそうですが、満人にはひとりに一個ずつと決められていたようです。兄は煙草をのんだため、そういう事情をよく知っていたのだと思います。あとに硫黄島に配属されてから兄が話してくれなかった軍隊の暗部を知ることになるのですが、当時の自分にはロシアの貴婦人やオペラ座、満鉄の窓の向こうに果てしなく続く地平線といった言葉が、どれほどきらめいて心に残ったことでしょう。四つ上の姉は、丸の内にある興銀(日本興業銀行)に勤めておりました。姉は毎朝、隣の国府津駅から湘南電車で東京駅まで通勤しておりました。自分の生家は写真屋で貧乏ではありましたが、姉の収入が大きな助けになり生計は成り立っておりました。
釜野というところは豊かな土地柄で毎朝地引網にかかる魚も多く、畑で採れる野菜も豊富で食料の不足した戦時下にも一家が暮らしていけるだけの食べ物がありました。自分は中学を出ると同時に平塚にあった陸軍の通信隊に編入されました。昭和十九年四月のことです。そして、その年の十二月に硫黄島へ渡りました。行き先を知らされないままの移動が決まり、最後の日々を過ごしていた時のことです。小学校の時の担任だった北山先生が尋ねてこられ、夏目漱石の「草枕」を頂いたのです。北山先生、いや、自分は先生を雪絵先生と呼んでおりましたから、ここでも雪絵先生と呼ばせて下さい。
雪絵先生はやさしい方でした。自分の家には井戸があり、その井戸から水を汲んで台所の瓶まで運ぶのが小学校の頃の自分の役割でした。それで自分は冬になるといつも両手いっぱいにあかぎれを作っておりました。雪絵先生は生徒の間を歩いて本を朗読しながら、自分の所に来るとそのあかぎれの手にクリームを塗ってくださるのです。その時の先生の白い温かい手の感触は、今でも忘れられません。
また、兄が使った十年前の教科書を譲り受けていたため、東京市の人口などが新しい教科書に載っている数字と違っていることがありました。たまたま自分がその部分を読んでいた時、教室の他の生徒が間違えたといって笑い出したのですが、雪絵先生は僕の教科書にそっと線を引き、訂正した数字を書き込んでくださいました。出征のとき雪絵先生は、釜野の村人の唱和する万歳の中をかき分けるように進み出て、こう話されました。
「キヨシ君、絶対に死んではいけません。きっと、きっと、生きて帰ってくるのですよ。」
雪絵先生は涙を流しておられました。その言葉に村の人たちは驚きましたが、先生をとがめる人はひとりもおりませんでした。言葉には出しませんでしたが、みな同じ気持ちだったのだと思います。自分はそうやって国府津の駅から両親、姉さん、雪絵先生や村の人たちに見送られ通信兵として出征したのでした。
島に渡った自分を待っていたのは、来る日も来る日も穴を掘ることでした。島には水がありませんでした。雨が降るのを待って雨水をためて飲料水にしていました。年が変わり最後の船が島を離れると、島中の空気が張り詰めたものに変わりました。隣の小笠原から運ばれる荷物も途絶え、穴掘りの作業は昼夜を問わず続きました。雨水で腹を壊すものが増え、また食事も持久戦に備えて一日二食になっていました。島は火山島でしたから、地面を掘れば掘るほど地熱で温度が高くなり、連絡通路のような地中深くのトンネルの中では体温をはるかに越える場所も珍しくありませんでした。
島には生き物がほとんどいませんでしたが、さそり、ハエ、ムカデには悩まされました。
三辻 孝明(みつじたかあき) 「CUBE IT AUSTRALIA」のCEO(最高経営責任者)。早稲田大学人間科学部環境科学科卒業。1989年より豪州在住。 |
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