写真の撮影や発表を自分の主義・主張を訴えるだけの手段として使おうとすると、写真の持っている「イメージ情報」の可能性はすぐに限界に突き当たる。作品を一度、自分の手から放して社会に戻し、第三者から反応をもらうのも必要であろう(反応がないのも一つの反応である)。
写真を通して、現実を見る、自分を知る、自分と社会との関係性を見直す方法を確立していくことである。独りよがりになってはいけないのである。
「ファーストフード店を出る。夜のセントロ(下町)を徘徊する。街灯の無い大通り。車のヘッドライトに浮かび上がる人々の姿。
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車道の隅に座り込んで野菜を売っている母と子を見つけた。おそらく売れることはないであろう、排ガスにまみれた果物の前でたたずむ親子。ゴミの山の中を、素足で店じまいする幼い子。売れ残った商品がいっぱい詰まったカートを押して、店じまいの準備を始める露天商の男の子。
燃えさかる太陽が輝く、昼間のマーケットの情景とは一変している。
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