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Barefoot in the Creek

 

 後に、柵が立てられ、井戸が掘られた。また移住者は住居と酪農小屋、搾乳所を与えられた。こういった開拓には2年半程かかったであろう。その間、グループは共同で土地を開拓し、時に3、4人の小さなチームに別れ、いくつかの土地を開拓していった。さらに食費として週6ドルが3ヶ月間支払われた。その後土地が自給自足に足るようになるまで請け負いの仕事をする。週6ドルから8ドルが相場であった。女性や子供たちも収入の助けとなるために働いた。労働者の親方が仕事量を決定し、移民者たちはいわゆる「悪条件の契約書」を結んだ。このような状況では、女性と子供の助けが日々の生計を立てるためには必要であった。グループの一員になるには、それぞれが以下のような条件を承諾しなければならなかった。監督者の期待に応えるよう労働すること。

休暇の許可がない限り働き続けること。実労働分の賃金を受け取ること。ある種の仕事には定められた労働時間がないこと。残業の一部を負担すること。
 これらは、最初に要求された最小限のことであった。後に、移民者はさらにより多くの要求事項があることを知っていくことになる。
 個人の性格ももちろん重要であったが、開拓計画の鍵となる人物は、親方であった。親方はあらゆる知識を持ち、日々の要求に応え、その報酬として週12ドルを受け取った。その名前から察せられるように、グループは集団開拓計画の基本の単位であったが、それ以上にグループに属する人々の互助会的役割も担っていた。グループはすぐさまその特有の個性を持ち始め、それぞれ互いに地理的にも、また社会的交流においても分断されており、発展のスピードも異なっていた。