また、先の研究家はこうも言った。移民集団の状況は彼らの出身地であるイギリスのスラム街よりはましなものであろう、と。たいていの移民は、イギリス社会制度からの追放者であったわけではない。それぞれが移民理由を持っていて、大抵はイギリス社会制度の下流クラスの中でも上部の、あるいは中流クラスの中でも下部に属した人々であった。高等教育は受けていないものの、知的でかつ人徳者たちであった。彼らの中には引退した軍隊の指揮官、教師、警官、牧師、農夫などさまざまな熟練した高度な技術を持ったものがいた。多くは人生に何かしらの行き詰まりを感じ、また多くは厳格なイギリスの階級制度に縛られる中で、
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西オーストラリア政治団体が大いに楽観的に宣伝し、英国移民局が盲目的な熱心さでサポートしたこの新しい開拓計画に、現実から逃避する希望と更なる飛躍を約束してくれるものを見出したのだった。
わたしが7歳の時に両親はこの計画に参加した。マーガレットリバー、いやむしろそこから東に15キロ程のところに位置する名もない場所で、5年半もの間彼らが格闘し、そこで経験したことは今でもわたしの記憶の中に鮮明に残っている。その場所は、今ではオズミントンと呼ばれているが、当時は単にグループ85として知られていた。
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