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【連載小説】 硫黄島ダイアリー 第四章『CHEMISTRY』3話

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筆者三辻孝明さんは、一昨年の2019年8月に癌の告知を受けました。以後、自然療法や抗癌剤治療を経て癌の摘出手術を受けるなど、その約10ヶ月間、「静かに死を見つめながら、久しぶりに文章を残すことができました」と話しています。また「レポートに毛の生えたようなものですが、過去の自分自身の経験を形にできたことは、少し肩の荷が降りたような気持ちです。よろしければ、ご一読ください」と語っていました。

そして、2020年7月16日に当「硫黄島ダイアリー」の連鎖がスタートすることになりましたが、翌月の8月10日、残念ながら三辻孝明さんは帰らぬ人となってしまいました。

闘病生活中に死を見つめながら書き上げられた当連載「硫黄島ダイアリー」ですが、生前の故人の遺志を受け継ぎ、パースエクスプレスでは連載を継続掲載致します。読者やユーザーの皆様には、引き続き「硫黄島ダイアリー」をご愛読頂けると幸いです。

<第四章『CHEMISTRY』2話はこちらから>
 
 

 
【連載小説】

硫黄島ダイアリー

三辻孝明

 

第四章『CHEMISTRY』3話


 
 なぜ、二ノ宮の帰りに長者丸という場所に行くことになったのだろう?

 理由は、あの砂浜に棄てられていた浮き輪に書いてあった文字に違いなかった。品川から拾ったタクシーで、僕はたぶん上の空だったに違いない。気がつくと運転手さんが怪訝な顔をしてこちらを振り返っている。

「それで西品川なの?それとも長者丸なの?お客さん、どっちなのよ?」

 僕は知らないうちに、車に乗り込みながら長者丸という言葉を口にしていたらしい。長者丸とは船の名前だけではなくて、このあたりの地名にもあるのだろうか。尋ねてみると「ああ、あるよ」という答えだった。運転手さんのその言葉から、僕は初めて長者丸という場所が東京にあることを知ったのだった。

「あのそれで、長者丸という場所はここから遠いのですか?」
「あんた、明るいうちから大丈夫なの?長者丸も西品川もすぐ近くだよ。それでどっちに行くのよ?」

 運転手さんは「30分待ってこれかよ、たく、今日はついてないよ」と舌打ちをした。だから、長者丸に行った動機は、成り行きでそうなったとしか説明の仕様がない。その長者丸でタクシーを降り、遠くに見える自然教育園の森に向かって少し歩いてみたけれど、期待したキヨシ少年とつながるような事は何も起こりはしなかった。島の呪いを意識して以来、僕は少し神経が過敏になっていたのかもしれない。たまたま見つけた漁船の浮き輪が長者丸だったからといって、わざわざその地名の場所まで尋ねてみる必要なんて初めからきっとなかったのだ。

 通りに戻ると、さっきの品川駅で拾ったタクシーが、ちょうどUターンをして元来た道を戻るところだった。僕が手を上げると、タクシーは急ブレーキをかけて止った。そして僕を乗せると、先ほどの運転手さんは十分不機嫌な顔をしたまま、もうこちらにはなにも聞かずに、西品川に向かって車を走らせていったのだった。

********

「わざわざ、釜野までまた足を運んでくださったのですね。何か、自分のことであなたに大変な負担を強いているようで、とても心苦しく思います。」

 キヨシ少年は、その日の夕方、突然姿を現したばかりか、今度は玄関に腰をおろして、編み上げの靴ひもを解き始めている。

「あなたがおっしゃっていたように、釜野の様子を見るだけでも、日本が大東亜戦争に敗れ、西欧の植民地になり、代々続いていた文化も何もかも棄てて新しく生まれ変わった国になったことが、現実のこととして理解できました。そこでは、憲兵や、特高警察や、隣近所の目を気にする必要ももうなく、新しい日本人たちが、怯えずに生活をしています。だから、その中に自分も含まれて一緒に暮らすことのできなかったもどかしさはありますけれども、これでよかったのだ、敗れはしましたけれども、あの恐ろしい時代がおしまいになって間違ってはいなかったのだと、はっきり思うことができます。」

 靴の紐はとっくに解けていた。でもキヨシ少年は僕に背を向けて座ったまま、こちらを振り返ろうとはしない。

「自分に残された時間はもう数えるほどしかありません。こうして内地につれて帰って下さった上に、あなたに、これ以上甘えるわけにはいかないと重々承知はしているつもりです。それでも、どうぞ、最後のわがままだと思って、これから申し上げることを聞いてください。硫黄島以来、あなたの周りで起きていることは、それまでのあなたの人生とは違い、偶然の積み重ねが続いているわけでは、もうありません。それは、見方を変えれば、珍蔵さんのおっしゃっていたように、どえらいことが起きる、場合によっては命を落とす、ということにつながってしまうのかもしれません。でも、こうして自分があなたにお話しているように、この世界は目に見えるものだけででき上がっているわけではないのです。時々、ちょうど今のあなたのように、知らないうちに扉が開いて、望んではいない出来事に巻き込まれてしまうということも、起こってしまいます。今申し上げているカーマの仕組みについては、決して学校や周りの人から教えてもらえることではありません。そしてこの社会で生きていらっしゃるほとんどの人が、そういう目に見えない出来事、流れがあるということを信じないように、目を向けないようにして、毎日を暮らしています。運命という言葉を思い出してみてください。運命とは、あなたの頭の上にある空のようなものなのです。晴れたり、曇ったり、雨が降ったり、雪が降ったりします。でも、それはあなたが操作して起こしているわけではありません。あなたがそれに属しているのです。あなたは後から来て、その下で暮らしているだけなのです。」

「三辻様、あなたに勇気があるのなら、いえ、あなたには勇気があります。島で作業をされていた時、あなたはさそりを恐れませんでした。いや、きっと恐れていらしたとは思います。でもそれを表には出しませんでした。ですから、こうしてお願いしているのです。どうぞ、これから先も、あなたのまわりの出来事を腕に這い上がってきたさそりを殺さなかったように、そのまま受け止め続けてみてください。自分から今のあなたにお話できることは、そのあたりまでです。」

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 マリオのアパートメントを訪ねたのはたった一回きりだったし、それも夜中で仕事の後で疲れていたから、思ったよりもあの夜の道順を思い出すことは大変だった。

 タクシーに乗ったまま第二京浜国道を左に曲がって戸越銀座通りに入ってもらおうと思ったら、夕方の買い物の時間で歩行者天国になってしまっていたのだ。運転手さんから進入できないけれどどの辺に行けばいいの?と聞かれて、私はその時初めてその質問に答えようがないことを知ったのだった。

 私はそこでタクシーを降りると、あの夜マリオの運転するセダンの助手席から眺めた街並みと、部屋から逃げ出して駆け下りた坂の途中にあったはずの公衆電話を頼りに、買い物客で賑わう歩行者天国の商店街に入って行った。活気のある賑やかな商店街を歩きながら、深夜のシャッターが下りたあの夜の灰色一色の同じ街並みに重ねて考えて見る。

 それはあまりにも違う景色だった。車の中から走り過ぎるタイミングで、その辺りを左に入り、次にその辺りを右にと、運転手に話しかけながら少しずつ思い出していこうと思っていた私の考えは、脆くも崩れてしまった。

 夢中で歩いているうちにやがて右側にスイミングセンターが現れ、商店街をとっくに外れてしまったことを知った。記憶に残る深夜の街並みから偽刑事のアパートを見つけ出すのは、もうだめかもしれなかった。あの晩、私は坂を下りてこの商店街を左に折れ第二京浜国道でタクシーを拾ったのだ。

 私は折れそうになる気持ちを奮い立たせた。その歩いた時間のことを手がかりにする以外にない。私は引き返すと、先にある路地を左に曲がって、狭い坂道を登っていった。マリオのアパートが左側の高台にあったことだけは確かだったから。

********

 真っ暗な部屋の中で目が覚めてみると、僕はカタツムリのようにまるくなって畳の上に横になっていた。いつの間に意識を失ってしまっていたのだろう、、、

 部屋の電気を点け、玄関で靴のひもを解いていたはずのキヨシ少年を思い出し、見に行ってみたけれども、もう彼の姿はどこにも見えなかった。またいつの間にか夢を見ていたようだった。

 いや、そんなことはない、キヨシ少年はさっきそこで靴を脱ぎながら、確かに話し始めたのだ。話の内容だってちゃんと覚えている。話しながら彼の肩は震えていたし、周りで強いカビの匂いもしていた。今日、僕が釜野に行ったことまでちゃんと知っていたのだ。

 僕はキッチンに立った。やかんをガス台にかけ、火を点けた。そしてコーヒーの豆をひきはじめた時に、誰かがドアをノックする音を聞いた。それは管理人さん以外、誰も訪ねて来ない僕の部屋に、今日2回目の訪問者を知らせる音だった。そして、僕にはそのノックがキヨシ少年に違いないということがすでに分かっていた。
 

<第四章『CHEMISTRY』4話へ続く>


 

三辻 孝明(みつじたかあき)
「CUBE IT AUSTRALIA」のCEO(最高経営責任者)。早稲田大学人間科学部環境科学科卒業。1989年より豪州在住。2020年8月10日永眠。

 
 
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