「パイオニアたちのチャレンジ」
 

HIROYUKI ISHIDA
[パース・グローリーFC]
石田 博行
1979 神奈川県に生まれる
1995 中学卒業後、単身ブラジルにサッカー留学
1995 ブラジルのニチカ・ロンドリーナFC入団 以下、ニチカ・ロンドリーナFCに
1997 在籍しながらレンタル移籍したチーム
ウニオン・バンデランチェス
マリンガ
サンパウロFC 
ロンドリーナEC
PSTC など    
※ U-17ブラジル代表の練習に特別参加  
当時、ロナウジーニョと共に練習
1998 清水エスパルスとプロ契約
2001 東京ヴェルディ1969とサテライト練習生契約
2001 シンガポール・クリメンティ・ハルサ入団
2001 オーストラリア・オリンピック・シャークスに移籍
2004 パース・グローリーFCと契約・日本人初のAリーガー
2005 パース・グローリーFC入団
 

NAOKI IMAYA
[ニュージーランド・ナイツFC]
今矢 直城
1980 兵庫県に生まれる
1990 10才の時に渡豪 シドニーへ
1998 日本に一時帰国 サンフレッチェ広島の練習に参加するも入団できず
2000 オーストラリア・ブラック・タウン・シティーに入団
2001 キャンベラ・コスモスに入団
2002 ブラック・タウン・シティーに再入団
2002 アデレード・ギャラクシー入団
2003 スイス1部リーグ ヌシャテル・ザマックスに入団
スイスカップ4試合
UEFAカップ1試合出場
2004 スイス2部リーグ ラ・ショーデフォンズに入団
2005 ブラック・タウン・シティーに再々入団 11試合出場4得点9アシスト リーグ優勝
2005 ニュージーランド・ナイツFCに入団
 
   
       

 10月23日にパース・グローリーFCのホームで迎えたメルボルン・ビクトリーFC戦にスタメンで出場した石田博行は、前半早々、相手ディフェンダーのタックルを右足首に受け、負傷。無理を押して後半73分までプレーするがそのツケがまわり、以後11月19日の復帰戦まで約4週間、怪我に悩まされた。一方、今矢直城は、2004年9月に左の足首を疲労骨折し、その後3ヶ月間で治すが、今年の5月、同じ個所を骨折してしまう。そして、復帰を果たしたのは、ホームで迎えた9月22日の石田が所属するパース・グローリーFC戦だった。しかし、何の因果か、Aリーグの先駆者2人は、未だにAリーグで同じピッチに立ち、同じボールを追いかけたことはない。


2001年に互いの存在を知る —

 今矢:自分にとって、たった15分間の出場だったけど、9月22日のグローリー戦が、怪我から復帰しての第1戦でした。
 石田:自分にとっては、あの試合はシーズン始まって以来の最悪の出来だった。後半の20分に交代したので、結局、2人で同じフィールドには立っていません。
 今矢:2人で最後に一緒にプレーした試合は、確か2002年に石田選手が所属していたオリンピック・シャークスにテストを受けに行った時。90分間だけ一緒にプレーしました。
 石田:シドニーにいた時は、2人の住んでいた所が1時間半以上離れていたので、あまり会う機会がなかったですね。
 (本誌:2人は11月11日に行われたグローリーのホーム試合でも対戦するはずだったが、石田選手は右足首の故障でメンバーから外れ、今矢選手はフル出場した。ここでも残念ながらまたもや同じフィールドに立ってはいない)


日豪のサッカーについて —

 今矢:2003年に移籍したスイスのチームでは、サッカーがあまり楽しめなかった。勝ち負けに凄くシリアスだったし、練習のミニゲームだろうが、紅白戦だろうが、負けることは絶対に許されなかった。
 石田:オーストラリアでは、練習中の勝ち負けといったシビアな感覚はあまりない。でも、自分の知っているブラジルでは凄かった。負けると喧嘩になるほどでした。
 今矢:言葉が違うと、チームメイトとのコミュニケーションがゼロになってしまう。スイスでプレーしていた時、最初の6ヶ月間は言葉が分からなくて牢獄にいるようでした。一言もしゃべっていないチームメイトもいた。
 石田:でも比較的スポーツの中でも、サッカーはまだ言葉ができなくてもやっていけるスポーツだとは思う。他のスポーツに比べて、自分で打開できると思う。
 今矢:確かに。でもコミュニケーションを取らないと、プレーに影響してしまう。
 石田:シンガポールからシドニーに行った時、英語は全く話せなかった。当時の監督とはポルトガル語で話をしていました。チームメイトとは、「Go、Dinner、Together」といった感じで会話をしていた。ベルギーに行った時は、チームメイト同志でのポジション争いから、相手を蹴落とすようなことがあることを肌で感じた。でも、ポルトガルではそんな事はなかった。もちろん、自分がポルトガル語を話せたからかもしれないけど、ロッカールームに入った瞬間から、雰囲気が違うのを感じました。

 今矢:オーストラリアのチームでは、あまりチームメイトをおとしめるようなことはないですね。。
 石田:日本ではチームによって、そのようなことはあるかもしれない。オーストラリアと比べると、日本の方が競争意識は強いから。
 今矢:スイスは、とにかくサッカー、サッカー、サッカーだった。戦争に行く兵隊のようだった。試合の48時間前は、軟禁状態。最初の6ヶ月間は、オーストラリアに帰りたかった。でも、昼間の練習が始まれば、そんな事は言っていられない。今となっては、良い経験をしたと思います。
 石田:自分の場合、ブラジルに行って3ヶ月目に試合で活躍して、レンタルで他のチームに移った。あの時の孤独感は、本当に辛かった。本当に日本に帰りたいと思った。でも、あれを経験したら、もうどこに行っても大丈夫です。    
  今矢:今回のAリーグでは、当初2チームから入団の誘いがありました。完璧なオファーは、ニュージーランドの方が先だったので、とにかくAリーグでプレーがしたかったからサインをしました。でも、今のチームは、選手個人個人のレベルはそんなに低くはないのに、試合に勝てない。オーストラリアとニュージーランドの力の差では、もちろんオーストラリアの方が上なんだけど(ニュージーランド・ナイツFC、第15ラウンド終了時点での成績は1勝13敗1引き分け。8チーム中最下位)
 石田:日本とオーストラリアだったら、日本の方が技術は上だと思う。オーストラリアには、身体的な強さがあるけど。   
  今矢:オーストラリア人は、人にもよるけど日本人ほどテクニックはない。日本人の足元は、確かに凄い。しかし、オーストラリアにもいい選手はいる。残念ながら、上を目指す道がなかったから育たなかったけど、今年からAリーグというものができたから、また何か変わるかもしれない。自分と一緒にやっていた頃の16〜18歳位の選手で、当時いい選手はたくさんいましたよ。


見据える先 —
 今矢:子供の頃から、プロサッカー選手になりたかった。今もサッカーのことしか考えていません。サッカーは悪い時が80%、良い時が20%。うまくいかずに辞めようと思ったことは何度もあります。次の人生を考えたことも。でも寝て、次の日起きてみると、ボールが蹴りたくなる(笑)。何かのマガジンで読んだことがありますが「ピークというのは歳ではなくて、3年間怪我をしないでプレーできている時がピーク」と書いてありました。怪我はしたくなかった。サッカーをしていて一番楽しくなかったのは、怪我から戻ってきた時。何も出来なかった。思うように出来なかった。でも、今は徐々に良くなってきています。今まで在籍したチームがオーストラリア、スイス、ニュージーランドの順だとレベルは落ちているかもしれなけど、それが今の自分の実力。これからまた、高いレベルに戻るように頑張ります。この世界は、実力が全てだから。最終的には自分ですから。今は、チームが勝つことを最優先に考え、最終的な目標は日本代表です。そして、高いレベルのチームでサッカーがしたいと思っています。
 石田:将来はいずれ母国へ帰ります。でも、日本でサッカーをするならば、相当活躍しなければ、上はない。もし全日本代表を目指すなら、ヨーロッパでプレーしなければならないでしょう。正直、オーストラリアでサッカーをしていても代表に選ばれるのは、“ゼロ・チャンス”だと思います。ヨーロッパのUEFAカップやチャンピオンズリーグに出場するチームに所属することが第一条件となるでしょうね。

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