「時代を超える創作活動」

 この本で、写真論以上に感じたのが、氏自身の生き方の強烈さである。それはまるで、小田実氏の『何でもみてやろう』に通じるところがある。 こちらは69年が初版である。あれ?と思って、沢木氏の本に戻ってみる。 沢木氏は「異国への視線」というタイトルで小田実氏の『何でも見てやろう』についてちゃんと触れている。偶然だろうか。いや、そうではないらしい。沢木氏は、小田氏と藤原氏に共通する部分を見つけている。

 沢木氏は、藤原氏を評する。
  「だが、ひとたび表現者としての道を歩み出した者に、以前のような無垢な『放浪』が許されるはずもない。表現に対する欲求が『放浪』を手段と化してしまうからだ。」「藤原新也は、そこで『放浪』する者としての仮構の立場を捨て、帰ってきた者として、取材する者としてカメラを構えるという立場を明確にしたのだ。」

小田氏については、「だが、それ以後の彼は、旅をすることで変化していくというより、結論に合致する現実だけを見ているように感じられてきてしまったのだ」。さらに文中、小田氏自身の文章を引用している。「私はやはり帰らなければならない。何のために−たぶん、自分の本当に所属する社会の中で、自分自身に責任をとるために」。

 日本を出るという行為。一見、主体的な行動のようであるが、そうではないらしい。また、写真を撮るという行為、これも自分の意志で行っているようだが、そうでもないらしい。
 自分は、今という時代に、日本に生まれてきた。そして、今、写真を撮るという仕事に就いている。人はどこまで意識的に生きているのだろうか。まあ、無防備に突き詰めてしまうと、単純な運命論者に陥ってしまうのが関の山だ。

 

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