違うのである。私が知りたいのは、「なぜ、憧れたかであり、なぜ、報道したいのかであり、なぜ、好きなのか、である」。もちろん、これらの「なぜ」を持っている人は少なく。さらに、その問いに答えを出している人は、極めて希である。ところがこの「なぜ」を意識している自分自身でさえ、なぜ、この「なぜ」にこだわるのか、それの答えが出ているとは言い難い。いつも禅問答のような状況に陥ることがある。それでも、最低、解決していない「なぜ」を抱えていることを意識している。
藤原氏の『東京漂流』を開いてみた。83年に出版された本である。ほぼ20年前の日本社会を斬った内容だ。そこには大上段に振りかざす写真論はない。だが、人が(藤原氏が)なぜ写真を撮るのか、その動機をほのめかせているように感じる。
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いや、現代人が写真を撮ろうとする動機とはなんなのか。その背景を分析するヒントが散りばめられているようだ。見えないモノを見えるように…、そんな写真の方法論がプンプンしている。
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