自国民が犠牲になれば、当事者顔をして大騒ぎ。他の国の人の生命が失われても、単なるニュース扱い。今の私達の生活は、命の重さが平衡ではないことに気づきつつ、それをはっきりと指摘されるのを嫌うようだ。何も考えなくてもいい、現状維持的な平和生活は、もしかしたら誰かの犠牲の上に立っているかもしれない。そのことを指摘されるのも嫌う。例えば私は、グアテマラも含め、中米各国や東南アジアのゴミ捨て場で働く人々の写真を撮り続けている。すさまじい貧困の現実である。もちろん、多くの子供達も働いている。写真を見た感想は、同じようなものだ。
「過酷な状況の下でも、汗水流して働いている子供達の姿に感動しました。そんな彼らの姿を見て勇気が出ました。飽食の日本の姿を反省しました。」
これが大勢である。しかしながら、なぜ彼らがそういう生活をせざるを得ないか、どうして貧困の生活を受け入れざるを得ないのか、その背景にまで想像を巡らせた感想は極めて少ない。彼らの存在はあくまでも、対岸の悲劇のままである。
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飽食の一方で、飢餓がある。自然の生み出す産物は一定だと思ったことがある。本来なら他者が享受すべきモノまで、それが当然のように偏ってしまっている現実もある。厳しい状況下で生活する人々は毎日の生活に追われ、自分達の生活を良くするために、ほんの小さな声を上げることもできない。上げようと考えることさえ放棄させられている。強い者が得る。それは、自然界の厳しい掟かもしれない。そこには一考の余地はないのか。しかも、あたかも、公平・公正な立場で競争がなされているように、強者は錯覚したまま。ゴミ捨て場でのギリギリの日常生活は、今も続いている。為政者にとっての恥部となる現実は、公にされることは少ない。その事実は、時代と平行して記録に残されることは、これまた少ない。
グアテマラの(経済的な)貧しさ、エルサルバドルの貧しさ、カンボジアの貧しさ、フィリピンの貧しさ。太平洋を隔てた国の間に、貧しさに共通点があるのでは? 現場を歩きながら、ふと、気づいた。もしかしたら、日本(先進国)と関わりがあるのかもしれない? 外国の富や資源の収奪を続けているかもしれない。そう、指摘されるのを嫌う人々もいる。
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