軟禁状態から解放された後、地方遊説に出たアウンサンスーチー氏は、アラカン州・カチン州・シャン州などを訪れた。どこへ行っても熱狂的な支持者に囲まれた。その数は、数千にも上った。スーチー氏をある程度抑え込んでいたと思っていた軍政権は、人々の反応に驚いた。事件は、5月30日にザガイン管区で起こった。軍政権は、民間団体のていをとっているが、その実は軍の翼賛団体である「連邦団結発展協会(USDA)」を使ってスーチー氏の演説一行を襲撃させる凶行に出た。それは後に、「血の金曜日事件」と呼ばれる大弾圧だった。
軍政府発表で死者7名、行方不明者数名、NGO等の発表で死者10数名、行方不明者約100名。アウンサンスーチー氏は再び拘束され、軟禁状態に置かれてしまった。この事件の反響は大きかった。軍政寄りと思われていた日本政府でさえ、新規のODA(政府開発援助)を凍結せざるを得なかった。軍政のスーチー氏に対する処遇は、これまで以上に厳しかった。
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拘束から約3ヶ月半、9月半ばまでスーチー氏の所在は全く明らかにされなかったのだ。軍政権は当初、スーチー氏の身の安全を保護するといいつつ、国家保護法10条a(国家が危険人物とみなした者を5年間、裁判なしに拘束できる)を適用した。 |