街で出会う全ての物乞いと分かち合いをしていたら、それこそ際限がない。だからといって、常に出し惜しみをしているわけではない。時に、気前良く財布を開くこともある。あまり真剣に考えなくてもいいのでは、と思っている。物乞いをする人々の姿が日常生活の一部になると、そこの暮らしにふさわしい、自然な対応が出来るようになる。必要以上にお金に固執することなく、自分の出来る範囲で分かち合いと共に暮らしていこうとする生活が出来上がるのだ。
街に暮らす人々の、一見した経済的貧しさは、ビルマよりカンボジアやフィリピンの方が厳しいかもしれない。もしかしたら、ビルマの首都ラングーン(ヤンゴン)よりも、タイ・バンコクの暮らしの方がひどいかもしれない。もっともここで、東南アジア各国の経済的な貧しさを比べたところで無意味なことである。
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人は貧しくとも、それでもなお生きていく。生活の底辺を這いずるようにしながらも生きていこうとする。しかしである。明日、いや今日の食べ物にさえ窮する人達は、なぜ、それでも生きていこうとするか。彼ら、彼女らは生に何を期待しているのだろうか。苦しみや、悲しみだけしかないように思えてしかたがないのに。どれだけの喜びや幸福が彼らの生活の中に見出せるのだろうか。生活の中にどれだけの安寧があるのか。
生きているのではなく、何か人間の生の営みとは無関係なものに生かされているのかもしれない。そう考えるのは、的外れなのだろうか。はたまた不遜なのか。そう思いながら今また、道路を渡って突然目の前に現れた親子2人を見つめ続ける。病気だろうか、あるいは栄養不良からか、疥癬で全身を覆われている乳飲み子を抱えたこの母親は、どういう思いで子を育て、生きていこうとしているのか。
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