言葉の問題は、さすがに大きかった。単語レベルではなく、感性レベルで、微妙なニュアンスを伝えにくかった。それが、写真のイメージだと、言葉なんかは超えて、国籍、民族、性別も超えてしまうんだ。そう感じ始めていた。暗記しただけの単語は深みがない。言葉はやはり生活の中から出てきてこそ、言葉である。
まずは生活レベルで不自由を感じる。そこで何か考え、行動を起こすようになっていた。分からなければ行動を起こす。そう会得していった。自分の周りで写真を学んでいたのは、英語だけでなく、スペイン語、イタリア語を母国語にしている人も友人にいた。訪問的な滞在者の自分は、言葉で感性を伝えることはできないな、そう痛感していた。
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「世界に伝えるという点では、言葉には限界があるなあ」−彼ら、彼女らとのつきあいからそう体感していった。ある時、スペイン語を得意とする女性と親しくなった。自分の撮りたい写真を言葉では美味く説明できなかった。しかし、一緒に撮影に行ったり、作品を見せ合うことによって、お互いどのような写真を撮って、フォトジャーナリストへ向かっていくのかが分かり合えた。また、時には、言葉無しで、目と目を見つめ合って。
言葉が通じる。そんな快適な生活に浸りきってしまうと、創造する力が萎えていくのでは。そんな感覚に今でも襲われることがある。快適な生活を送る。これは、言葉だけではないだろう。スイッチを押せば明るい電気がつき、蛇口をひねれば水が出る。場所の移動も車や列車、飛行機があるという快適な生活のことでもある。
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