そんなつらい思い出は、誰にでもある。自分の体験だけを特別視してはいけない。しかし、私の思考はそこで閉じなかった。一人の人間の発想や体験に限界があったとしても、実は社会と何かの形で繋がるとき、その思いは発展するのでは、と思い始めた。
写真の撮影と発表をごくごく個人的な作品作りだと、自分の主観を訴えるだけで、自ずと限界がある。そこで一度、自分の興味のある事柄・被写体選びを再点検し、社会に問い直し、反応を得る方法(反応がないのも、一つの反応である、とする)をとったらどうだろうか。
つまり、写真という具体的な目に見えるイメージ映像を通して、現実を見る、自分を知る、自分と社会の関係性をみる方法を確立していくのだ。そうやって、社会に参加していくのだ。個人的な感情を一般化したり共感を得る映像表現は可能ではなかろうか。
人間社会は多様な社会である。
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頭の中ではそのように理解できる。傲慢な人間もいれば、謙虚な人間もいる。圧制を敷く国家や共同体もあれば、緩やかな社会もある。まずは頭で理解するよりも、この矛盾だらけの社会に身を晒し、そこで何を考え、決断し、想像し、行動していくかである。好都合なことに写真を撮るには、まず自らが動かねばならない。動けば何らかの結果がついてくる。
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