集団開拓計画の結果は恐慌を待たずとも出ていたが、開拓者は1931年までそれがどれほど大きな影響をもたらすのかをわかっていなかった。その年までにバターを作るための乳脂肪の値は、開拓計画が立案された当時に設定された価格の半分以下に急落した。州の公庫には財源がなく、土地に価値がつけられ自給自足が可能と断定されると州からの援助は打ち切られるが、多くの場合そう判断されるのは時期尚早であった。それ以降、州から援助を受けるどころか、査定された土地の額に対する利子が3ヶ月ごとにクリームに対して支払われた小切手から差し引かれた。さらに、監督責任者も解雇された。利子が引かれた後、父が受け取った小切手の額面は2ドルで、それで翌月の小切手を受け取るまで、
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家族5人が暮らさなければならない月があったことを覚えている。どのレベルにいようと互いに罪のなすり合いをしていた。ある研究家が「かつての“光り輝く人々”が、ただの“惨めな小市民”になりさがってしまった」と記述していた。捨て鉢になった政治家たちから全く割に合わない非難を受け、それでなくても完璧に打ちのめされている開拓民たちはさらにやる気をそがれ惨めになるばかりであった。
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