ではどうやって、拝めばいいのか。戸惑うばかりである。例えばビルマでは、ビルマ歴を利用している。1週間は8つに分かれている。自分の生まれた曜日を確認する。個々の運命は、生まれた曜日によってある程度決定しているらしい。私は、月曜日生まれだから、方角は東、動物は虎、という風に。パゴダに入ると、東の方角に造られた虎の像の前で拝む。ビルマ人の名前には、例外を除いて、生まれた曜日を表す言葉が入っている。名前を聞けば、その人が何曜日生まれか分かる。「大いなるもの」に面するには、究極的には個人である人間が大切。だからビルマの人には、名前はあっても、家族を表す姓がない。人間はひとりという存在。
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その「拝む」という行為は、それが生まれ出された「場」も大切なのだろう。グアテマラの田舎町で、土着信仰に向き合う先住民族達に出会った。ろうそくに火を付け、声を上げ、煙を体にすりこむ。訪問者である外国人には、客観的に見て不合理にみえる風景であったが、でも、そこで生活する人には大切な信仰の一つ。仏教でもキリスト教でもない。その土地だからこそ、という拝みの風景であった。利益を求める行為よりも、人間を超えたものを崇める態度であった。
なぜ拝むのか。おそらく、不安から自分を解放することだろう。不安の出所は、人によって様々。将来が読めない。人の心が分からない。仕事の成果がどうなるのか。どう生きていけばいいのか。ちょっと考えれば、世の中、分からないことだらけ。不安だらけ。その分からないということが、科学技術を発展させたという面もあるだろう。でも、不安は当たり前。人間だから。何でも分かろうとするその態度こそが、不安を増幅させるようだ。
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