「祈りの風景」

国内での移動は非常に厳しく、切符購入の制限はあるが、旅行だけは別物。軍事政権下で自由旅行? ちょっと奇異に思えるかもしれないが、ビルマで旅行といえば、「参拝旅行」を意味する。さすがの軍事政権も、パゴダ巡礼までも禁止することはできない。それほど、仏教の影響力は大きい。
知り合いのビルマ人からは、イヤと言うほど尋ねられる。 「バゴーのパゴダには行ったか。パガンのパゴダはどうでした?パーンのパゴダにお参りしましたか。で、どうだった?」 ビルマ旅行のガイドブックは、その大部分がお寺やパゴダの解説といった方がいい。

ビルマ滞在中、結構親しくなったビルマ人にちょっとした意地悪い質問をしたことがあった。
 「確かに敬虔な仏教徒が多いです。どこの町にも、大小を問わず、必ずパゴダがあり、誰もが熱心に祈ってる。その姿は感動的ですね。人びとの熱心さは、十分伝わってきます。でもね、よく考えてみると、ほとんどの人が、『よりよく生まれ変わりたい。涅槃に到達したい』。もっと俗っぽく言えば、『お金が入りますように、宝くじに当たりますように』とか、『良い生活ができますように』とか、そんな現世利益のために祈っているのじゃあないですか。

信仰心が篤いといわれる割にはその内容がちょっとお粗末なんじゃないですか。」と。
ああ、この人は何を言い出すのか、という顔をされた。日本語を話すビルマの知人だったのが幸運だった。かみ砕くように、説明してくれた。
「日本語には、『祈る』と『拝む』という言葉があるでしょう。その違い、分かりますよね。確かに、パゴダでお祈りしているビルマ人の中には、現世の利益を求めて祈る人がいますが、でも、ほとんどの人が実は、『拝んで』いるのです。」
 日本語を母国語としない人に、こううまく説明されると、もう後の言葉が続かない。でも、なんかストンと落ちたように、理解できた。拝んだり瞑想したりするのは、人間の能力では理解できないものを感じるため。言葉で言い表すことのできないモノに対峙する。そこには、苦しみも、悲しみも、果ては喜びや幸福さえも存在しない。そんな人間の喜怒哀楽さえも超越し、包み込むモノがある。それの存在に近づくとき、「人間は生きているのではなく、生かされているのだ」と感じるのかもしれない。目の前のことだけにとらわれてはいけない。目の前の現象を写真に撮る。そんな行為を生業とする自分には、ほどよい戒めのように思えた。

 

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