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フォトジャーナリスト宇田有三氏による衝撃ルポ

On The Road by.Yuzo Uda
Vol.182/2013/03

ビルマ(ミャンマー)の「ロヒンジャ問題」を手がかりにして(6)



<ビルマ社会の反ムスリム的傾向>

 ビルマ社会では、インド人やムスリム人を指す「カラー(kalar)」という差別的な意味を含む呼称がある。ビルマの最大都市ヤンゴンには、英国による植民値時代(第1回目の「英緬戦争」は1824年。1886年の第3次英緬戦争でビルマ全土が植民地化)に、ムスリム人を含む多くのインド人が流入してきた。
 英国支配の植民地政策によって、ビルマにおける《王制と仏教界の密なるつながり》という社会秩序は解体し、「民族意識」が強く生まれてきた。つまり、植民者英国は、徴税などの支配体制を作りあげるため、人口調査を始めた。そのため、どこに・だれが・どのように生活しているのかという分類がされたのだ。おおざっぱにいうと、それがビルマにおける「民族」の発生でもあった。
 この英国の植民地行政に対して、税金の取り立てによる生活苦からの抵抗運動と新しく生まれた民族意識が入り交り、ビルマではやがて独立を求めるナショナリズム(国家主義・民族主義)が高揚していく。
 当時のビルマは英領インドの一部であったため、英領域内での人の移動にそれほど制限がなかった。そのため、ビルマでの植民地支配の中心となったヤンゴンにはインドからの人口が急増し、人口の半分はインド人で占められ、ビルマ人の人口は3割ほどであった。当時、高利貸しとしてビルマ人農民を苦しめたのは、実はインド系の人や中国人だった。
 1948年、英国から独立したビルマ人たちは、ようやく自分たちの国の「主人公」となることによって、植民値支配の軛(くびき)から脱した。ビルマ人たちはやがて、インド人の地主や金貸しに対する不満を公言するようになった。というのも彼らは、自らが国民としての立場を得たとしても、実際の経済はインド人たちが握っている部分もあり、「なぜ我々は彼らより貧しいのだ」というルサンチマン的な意識の反動で、彼らを見下す傾向を持ってきたからである。特に、ムスリム人たちに対しては、結束の強さから経済的に成功していると見なし、反発を強めた。