Vol..152/2010/9
「書くことと自然の癒し」

 でも実際、コトはそれほど容易(たやす)くはない。  どうしてか。
 これだけ情報通信が発達した現代社会で、しかも“競争社会”を生きなければならない今、自分の感覚のリソースを余分に割く余裕がない多くの人びとは、できるだけ自分を不快にさせる刺戟を避けようと生きているからだ。つまり、町を見渡せば広告過剰の社会は、過度の騒音や映像が耳目をやたら刺戟する。町中を歩こうにも(日本や米国、タイなどの都会での話だが)、他人を押しのけて歩かなければならない情況である。町に出なくとも家の中にいても、インターネットに接続すると、それだけで快不快が一緒くたに、脳みそにドバッと流入してくる。
 生きるためには、いや生き延びるためには、できるだけ高刺戟な環境に身をさらさないようにしなければならない。つまり、知らぬ知らぬのうちに、人間の持つ5感+1感の感度を下げ、できるだけ生物体としての自分の身を守らなければならないようになってきている。
 そこで、こういう現実を生きる我々が、「知るために」という理由で神経を研ぎ澄ませることが果たしてできるのだろうか。
 正直言って、できないと思う。
 だが、知りたいという欲望が湧き起こり、自分の感覚の感度をあげたいと思っても、もう遅い。なんとか刺戟社会に生きながら、尚かつ、感覚を疲労させないようにしなければならない。
 そもそもその前に、こういう高度で過剰な刺戟社会に暮らし、今という時代はできるだけ自分の感度を下げて暮らさなければならない、ということに気づかなければ、ある程度のことはやり過ごして生活することができるのだが。

 

こちらも同くプノンペンのゴミ捨て場。真っ白な太陽は日暮れが近づくにつれて色が変わっていく。太陽がオレンジ色に輝く直前、辺り一面は黄金色に輝く。こちらの瞬間、そこで働く人びとの苛酷さを忘れて、その美しさに見とれてしまう。ある意味、自然とは残酷なモノでもある。

   


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