Vol..151/2010/8
「恐怖と隣り合わせの日本の戦後民主主義」

 今年も8月がやって来た。

  そう、8月といえば、日本のメディアは毎年この時期、歴史を大雑把に振り返ることを習慣としている。広島・長崎への原爆投下、大中都市への爆撃、そして敗戦(終戦)へと繋がる物語を紡いでいる。

  大多数の人が戦後生まれの今の日本で、あの戦争を実際に経験したわけではないのに、ほとんどの人は戦争を2度と繰り返すなという思いを強くする。

 

  1945年の敗戦後から65年を経ても、あの戦争惨禍を忘れないようにするため、記念式典やドキュメンタリー放送などさまざまな取り組みがなされている。そんな中で、戦中・戦後を経験し、今やおじいさん・おばあさんとなった人たちへの聞き取り作業は、危機感をもたれている。特に、戦地に行った人は高齢となり、鬼籍に入った人が多くなっている。

  そういうこともあり、現在の日本であの戦争の記憶といえば、どうしても、当時日本に暮らして、B29などの爆撃を受けて苦労した世代からの聞き取りが主となっている。それゆえ、あの戦争は、被害者として記録される体験となってしまう。そう、被災の面だけが強調されることになっているのが現状である(と感じる)。

 
愛媛県西条市にある「関行男慰霊之碑」(2010年3月撮影)。関行男に関しては、ウィキペディアには以下のようにある。
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関 行男(せき ゆきお)
レイテ沖海戦において、神風特別攻撃隊・敷島隊隊長として指揮し、自らもアメリカ艦船に突入し戦死した。死後は軍神として畏敬の対象とされた。旧制西条中学校(現・愛媛県立西条高等学校)、海軍兵学校卒業。なお特攻隊の戦死者第1号は大和隊隊長・久納好孚中尉(法政大学出身)である。ただ戦果が不明であることと「海兵出身者を特攻第1号に」との上層部の意向で、関が特攻第1号として公表された。
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また、城山三郎『指揮官たちの特攻』(新潮社、2001年)にも詳しい。以下、その中で印象的な部分として、次のような箇所もある。
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敗戦によって、特攻隊員やその遺族を見る世間の目は一変した。「石もて追われる」という言葉どおり、神風一号の関大尉の母サカエは親戚の小野家に居たあと、別の家に移っていたが、その家に石を投げ込まれた。このため、大家から「即刻立ち退き」を迫られ、文字どおり石もて追われて、また別の家に。サカエは三年近く、知人宅の物置に部屋にかくまってもらうことになる。
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