一般にペシャワールの職業的乞食はわりあい堂々としており、「右や左の旦那さま」というような惨めたらしさはない。「コーダイ・デール・コシャリーギー(神は喜びます)」と述べ、「出せ」とばかりに手を差しだす者もある。
私も暇であったから、「人から施しを受けるにしては少し態度がデカいのではないか、『済みませんが、いただけないでしょうか』くらいの腰の低さがあった方が実入りが多いのではないか」と問糺したところ、ある乞食が案外まじめに説明してくれた。
「あなたは神を信ずるムサルマーン(イスラム教徒)ではありませんな。ザカート(施し)というのは貧乏人に余り金を投げやるのではありませんぞ。貧者に恵を与えるのは、神に対して徳を積むことです。その心を忘れてはザカートもありませぬ」
この乞食が高僧のような気がした。
「私も人に見捨てられたジュザーム(らい)の患者のために、はるか東方から来てかくかくしかじかの仕事をしておる。ならば、私もムサルマーンで、これもザカートということにはなりはしないか」
「そのとおり」
「ならば、あなたも我々の仕事に施しをしなされ。神は喜ばれますぞ」
私がぬっと手を出すと、乞食はちゅうちょなく集めた小銭をくれた。
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中村さんは、あえて挑発的に、現在では差別用語とされる「らい」「乞食」という言葉を使って自らの経験を書いている。そして、その挑発は中村さんだからこそできるのである。
私もここで、自分のバクシーシの経験を1つの物語として単純に記すことができる。だが、それでは全く面白くない。私が試みたいのは、自分のバクシーシ体験をどうして書くのかと、その意味を一度立ち止まって考えることによって、自分が何を言いたいのか改めて自分に問いかけることである。ちょっと分かりにくい。
例えば、タイ・バンコクで夜の繁華街を歩くと、男である私に向かって「オンナ、オンナ」「マッサージ、マッサージ」とひっきりなしに欲望を喚起させる声を掛けられる。それがバングラデシュでは、「ウイスキーはどうだ?」「ビールも飲めるぞ」と誘惑の声の質が変わる。そんな自分の経験を面白おかしく書き綴るのもいい。だが、それよりも、それを書くことによって、自分は何を言いたいのか、考える方が面白いのだ。
つまり、ちょっと視点を1回転半ほどずらしたいのである(すっきりと1回転でも2回転でもないところがミソである)。
それは、生活や文化・社会の異なる人びとの間に横たわっている筈の共通点を見い出そうとする試みだと感じるからである。いったい「それ」を書くことによって、何を言いたいのか、何を伝えたいのか。久しぶりの海外取材でそのことを深く考えるのである。
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