多くの人が経済的に苦しい生活をしているから、それはそれで仕方ないのである。日本円換算で1円でも利益を得ることは大切なのである。久しぶりの海外取材で、日本とは次元の異なる厳しい現実を見せつけられた。難民取材を始める前に、そこで疲れてしまった。
比較的大きな町であるコックスバザールを離れ、田舎に行った時のこと。バスや船を下りると、乗客目当てのリキシャがひしめいていた。リキシャの運転手から腕を取られ、肩を掴まれ「オレのリキシャに乗れ、マスター」「いや、オレのだ、マスター」「こっちのリキシャだ、マスター」。身動きが取れなくなった。特に外国人ということでいいカモだと思われているらしい。男たちの迫力に負けて、値段交渉どころではない。
そんな中で私が優先的に選ぶリキシャは、大人の客引きに圧倒され、はじき出される男の子のこぎ手である。少ない仕事の奪い合いは、体格の劣る子どもたちには不利なのである。でも、一旦リキシャに乗ると、今度はいたたまれない現実に直面する。もしかして、これは児童労働なのだろうか、と。
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12歳前後の男の子がハアハアと荒い息を吐きながら、自転車のペダルをこぐ。リキシャに乗った後ろから見ても、ほどなく額に汗が浮かび上がり、大きな粒となって首筋をつたって流れ落ちるのが分かる。それも浅黒い肌にキラキラと光る水滴となってである。罪悪感ではないが、なにかしら居心地が悪い。それなのにその汗がキレイだな、とも思ってしまう。だからといって、リキシャを降りて、並んで歩くわけにはいかない。実際、先進国の基準に照らすと「児童労働」といってもよい実態が、ここコックスバザールでも首都ダッカでも多く見かける。
では、そんな現実生活を前にどうすれば良いのか。目の前の現実から目を逸らすためには、見えていることを見えないようにするのが一番である。ある種の思考停止に陥らざるを得ない。
またバングラデシュでは、至るところで現地の人から「施し」を求められることがある。いわゆる「バクシーシ」である。インターネットで「バクシーシ」を検索すると、インドやアラブ諸国での経験が多く綴られている。さまざまな人がそれぞれの立場で、バクシーシに直面した時に感じたことを書いている。
例えば、アフガニスタン(とパキスタン)で長期間活動している中村哲さんは、その著書『辺境で診る辺境から見る(石風社)』で次のように説明している。もちろん、アフガニスタンもパキスタンもイスラームの国である。
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