この集まりの目的は、もう1つあった。メディア産業(と敢えて書くが)に関わろうとする関西の若者に、ある種のメッセージを伝えることであった
— 東京に行かなくとも、なんとかやりくりすれば、関西でもメディアの仕事を続けることができる可能性がある、と。
発言を担った者は、それぞれの立場で — 写真は写真の、ビデオはビデオの、作家は作家の、テレビはテレビの — いろいろな話をしたが、その立場の異なる者たちが共通して口にした言葉がある。
それは「志(こころざし)」という一語であった。この不景気の時代、マス・メディアが衰退する時代に、どうやって生き残るかについて、単に仕事上のサバイバル的な技術論ではなく、もっとも根源的な話をしてしまった。それは、やはり、どんな仕事をするにしても「志」を大切にしなければならないのではないか、と。単に金銭敵意な感覚でメディアに関わるのでは、長続きはできないのではないか、と。
「志」が大切だという私の発言に対して、会場から若者が質問票を出してきた。それには、「私が何故、フリーランスのフォトジャーナリストをやり続けることができるのか」というものがあった。どうやってモーティべーションを維持していくのか、と。
私の答えはこうである。 |
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自分が生きている上で、或いはこれまで取材に関わってきた上でいろんな経験をしてきた。その経験は、単に仕事をしたという充足感ではない。実際に取材現場で、身体が震えるような体験を何度もしてきたことである。身体が憶えたことは忘れない。身体で覚えた感動は忘れられず、もう一度その感動を、身体が欲するのだ。
身体を突き刺すような出来事を経験する。その体験が心に伝播する。心が感動して身体が震えたのではない。その逆なのである。ある光景や行動を目の前にして
— 例えば軍事政権下のビルマ(ミャンマー)で抵抗運動を続ける人を前にして — その彼らの具体的な光景で身体が震え、その震えが心に伝わって来たのである。ちょっとこじつけかも知れないが、身体が震えて心を突き刺す
— 「こころ」を「さす」 — それが、こころざし=「志」だと。
私の話は、ジャーナリストとして、今という時代をどう生き残っていくかという戦略的な話だったのに、いつのまにか青臭い説教的な「志」というところに落ち着いてしまった。もっとも、巷では、戦略・戦術的な話が幅をきかせる中、こんな話の展開も悪くないだろう。私はそう思っていたし、実は私だけでなく、他のメディア関係者も全く同じようなことを話していた。
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