Vol..142/2009/11
「今、あえて『志(こころざし)』を」

 私はというと、この集いで自分の考えを述べながら、同時に別のことを考えていた — 私たちはたった今、日本でメディアの東京一極集中のことを論じている。けれども、もしかしたら、例えば東南アジアのある人たちから見れば、こういう一極集中の話は「先進国」と「途上国」の関係にもいえることではないだろうか。途上国の人から見れば、日本の関西(先進国)に住む我々こそが、金融資本やエネルギー資源、メディアの一極集中を担っているその一部分ではないのか、と。或いは北半球と南半球との関係も似たようなものではないのだろうか。メディアの一極集中を語る際には、自らの位置付けも、常に自覚的であれということなんだ、と。
 だからこそ私は、ここ数年間はずっと東南アジア最後の軍事政権ビルマ(ミャンマー)に関わりながらも、敢えて意識的に中米諸国やオーストラリアの出来事や社会にも目配りを忘れずにいる。現場に入る取材者は、常に現場のことを考え、同時に俯瞰的に物事を見つめる「鳥の目」が必要なんだ、と。
 そう、この原稿を書いている今日11月9日、世界中に発信されていたニュースのヘッドラインは、東西冷戦終結の象徴的な出来事だったベルリンの壁の崩壊であった。だが、そんなニュースの中にあっても、中米にハリケーン「アイダ」が到達し、エルサルバドルだけでも124人を超える犠牲者を出した、というニュースも流れていた。多くの命が失われていたのだ。  

  そして、この多様な意見を尊重できる社会がどうして必要なのか。それは、人間が理性ある存在として、同時にある種の社会制度の中で生存し続ける上で基本的な条件だからだ。つまり、人間もまた社会的な存在であると同時に生物でもあるのだ。
 生物は、それがどんな状況にあっても、できる限り生存し続けようとする意思が、その生物の本能を越えて働いている。例えば、馬は、単に普通の馬だけでなく、縞馬(シマウマ)という形に別れて存在している。もし、大きな疫病が発生して、馬が滅んでも縞馬は生き残るようなシステムが、自然界のどこかに働いている。或いは、地面に生える草を食べる馬と高い場所の葉を食べるキリンの、生物としての棲み分けもある。自然界の生態系は複雑であるのだ。
 確かに物事を単純化することは便利である。だが、何らかの危機が発生した場合、そんな単純なシステムの元で、生き残るのは非常に危険である。何かの偶発的な一発で、何もかもが滅んでしまう可能性が極めて大きいからである。だから、時には不便だが、非効率的だが、生物にしろ社会のあり方にしろ、多様性は大切なのである。
   


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