Vol..135/2009/4
「みる(後編)」

 このごろ、日本の都会では、しゃがんでいる姿勢の人を見ることが少なくなったようだ。私自身も「しゃがむ」ということは和式便所以外では全くしない。しかし、あまり覚えはないけれど、たぶん小学生や中学生のころには、私もきっとよくしゃがんだことだろう。わが故郷・信州の田舎では、今でもおとなたちがしゃがむ姿勢をよく見る。しゃがむことを気にしはじめ、決してしゃがむことをしなくなったのだろうか。
(中略)
 背広だのエンビ服だのといったヨーロッパ式正装は、しゃがむとカッコ悪いようにできている。
(中略)
 問題はかなりはっきりしてきた。ことは「しゃがむ」という姿勢自体にあるのではない。「背広を着てしゃがむ」こと、すなわち、重点は「背広」の方にあるのだ。

 本多氏は、日本とベトナムでのしゃがむという姿勢に目をつけ、背広を着てしゃがむことへと考察を広げ、「服装もまた、支配する側とされる側の力関係にあること」へと論をまとめていく。
 わたしは、日本とビルマのしゃがむという光景で、本多氏と異なる考えが、それこそ偶然に浮かんだ。日本でしゃがむという光景が少なくなっていったのは、もちろんしゃがみにくい服装を身につけはじめた結果かも知れない。だが、それ以上に、しゃがまない生活様式を取り始めた結果からではないだろうかと。

   ビルマではまだまだ、しゃがむという姿勢が続いているのは、日常生活の中で、地面と近い生活をしているからではないかと考えられる。例えば農業従事者が7割近いビルマでは、いまだにしゃがんで働く生活をしている。市場でのモノの売り買いも、地面に置いた商品の品定めや値段のやりとりも、地面と近いところでやっている。炊事・洗濯も地面と近いところでやっている。また、ビルマのくつろぎの場である喫茶店は、小さなテーブルと小さな椅子を使用するため、地面と近い時間を過ごす。もちろん、便所もしゃがんでする。男も小用は基本的にしゃがんでしている。日本では、「和式便所」が急速に消滅し、座る「洋式便所」が一般化した。生活の中でしゃがむ必要性はないのだ。
 時代の移り変わりや地域や世代によって生活様式が変わるのは当然である。そういう生活習慣の違いを、写真からも読み取ることができるのだ。もちろん、そういう変化によって、人びとの思考方法も影響を受けていく。それを忘れてはならない。
 自分で意図したメッセージ以上の事柄を、結果として写真のなかに読み取ることができる。これは、果たして偶然の出来事なのだろうか。偶然は、果たして偶然なのだろうか。前編で村上春樹氏の言葉を引用したが、それは偶然ではないだろう。
 普段の生活の中に、自分たちが何かを求める気持があれば、心が開いていれば、いろんなメッセージを読み取ることができるのではないか、と。自らが偶然を引き寄せることができる。それを「心でみる手法」ともいえるのではないだろうか。
   


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