そこでだ、そういう早い時間の流れに逆らってみるのも悪くはないのではないかと思う。いやむしろ、現代の早く消費されてしまう情報の後に残ったものから何かを掬い上げるために、立ち止まって考えてみるのもいいかな、と。そう思って、改めて静止画という写真に戻ってみたい(そこが自分の土俵でもあるからだ)。
そう思って、ずっと考えを巡らせていた。写真に写ったもの、写されたものに、何を見るのか何を読み取るのか、と。そんなことを考えながら、漠然と何かを求め続けて考えていた。そこである時、ビルマ語を復習していて、気づいたことがある。
ビルマ語で食べるを「サー」という。食べてみるは「サー・チー(見る)」である。行くは「トワ」、行ってみるは「トワ・チー」。あれ、日本語と同じ表現である。動詞の後に、「見る」わけではないのに、「みる」という動詞がくっついている。
行く→行ってみる、食べる→食べてみる、する→やってみる、話す→話してみる。
実際には自分の目で見ないのに、この「みる」という動詞がくっついてくる。これは何を意味するのだろうか?単に語感のリズムからか?或いは、そういう言葉が残っているからには生活上の何かがその言葉を含んでいて、それの名残りだと考えるのには無理があるのだろうか?
おそらくこの「みる」は、試してみる(試みる)「こころみる」の「みる」であろう。ちょっと強引だが、「こころみる=心で見る」っていうことか。
このような動詞の使い方は、日本語やビルマ語だけでなく韓国語にもあるという。この「心でみるという手法」をひとひねり半させて、自分なりの解釈で広げてみて、なんとか写真の見方を深めていくことができないだろうか。
(続く)
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