「私の頭にあったのは、まず『会社に遅れてはいけない』ということでした。」「(地下鉄から)地上に上がったら、もう大変です。2、30人もの人が地面に倒れているんです。しゃがみ込んだり、仰向けになっていたりです。・・・・・。でも僕も、なんといっても会社に行かなあかんし、人形町まで歩きはじめました。」
「でも闇雲に歩いているうちに、なんとか日本橋に着いていました。よく着いたものです。日本橋から銀座線に乗って、銀座に出て、そこから会社まで歩きました。でもその間のことはまったく何も覚えていないんです。記憶がない。・・・・・。仕事着に着替えて朝礼に出たんですが、もう立って聞いていることなんてできません。でもそうしてみると、ちゃんと服を着替えてたんですね。だから仕事をする気はあったんですよね(笑)。習慣的なものというか普通だったらそんな状態で会社なんかいかないですよね。」
これ以外にも、多くの人が「とりあえず会社に行かなくては」と証言している。常に、頭の中には、或いは無意識的に会社に行かなければダメだと思っているということである。
会社勤めをするということはどういうことなんだ。働くということはどういうことなのか。考えさせられるのだ。何か事件や事故が起こる度に、人は、世の中で一番何が大切かを考えるはずだ。でもそこで出てきたのが、「とりあえず会社に行かなければ」ということは、何か思考停止に陥っているようにも思える。その思考停止は、今回のように100年に一度の危機にあっても、全く変化しないものだろうか。
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でも、こんな時期だからこそ、今まで当然だと思っていた労働形態を考える良い機会ではないのだろうか。「この1〜2年、我慢をすれば景気は回復するのだから、その間の辛抱なんだ」ということも言われている。それは、生活や労働の根幹から目を反らしているようにも思える。会社で働くというのが全てではないはずなのに、と。
一般の会社勤めをしたことのない私が想像する(偉そうに言う)のは見当違いかも知れない。だが、よく考えてみると、日本の会社−企業社会と言い換えてもいい−は、人が、人生の大半の時間を過ごす場所である。そこでは、基本的に「目標達成の充足感を人生の生きがいにすり替える構想になっている」。人々はそこで競争し合い、その競争を勝ち抜くことによって、さらに会社と一体感を味わい、言葉では表せない快感を得ている(決めつけ?)。誰もが努力次第で、平等な競争社会に参入できるという幻想を教育で植え付けられている。社会は一見、法律や合理性で成りたっているという思い込みで人々は走り続けている。
馘首が横行する2008年の暮れから2009年。また、働きたくても働く場所がない時代。異常な事態が想像を超えて肥大してしまっている。その大きさが故に、その異常さにさえ気づかない。100年に一度の危機は、経済的な側面ではなく、社会の在り方そのものを問うているのではないのだろうか。それが、会社勤めをしていないフリーランスという立場だから感じることなのだが…。
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