1928年頃、ボノラの製材所が移ってきた。作業員はスラブ人かイタリア人移住者で、よく働き、質素に暮らしてヨーロッパにいる家族を支え、いずれはオーストラリアに家族や花嫁を呼ぶつもりでいた。また、道路工事のためのグループが来たことも目新しいことであった。彼らは、まだ切り払われていない小牧場の道路際にキャンプを張った。グループの大部分を占める‘やもめ’たちの小さいテントと、垂れ幕がついた夫婦用の大きいテント、そして食堂用の大天幕もあった。毎朝男たちが工事現場に歩いていく様子は、鎖でつながれていない囚人たちのようでもあった。
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そしてポッサムの猟師たちも静かに、この土地に進入してきた。猟師たちは私たちの敷地にテントを張り、しばらく付近で猟をした。私たちは猟師からどの木にポッサムがくるのかを見分ける方法を教わった。それは主にバンクシアの木であった。猟師たちは食用にカンガルーを撃った。猟師の2週間の滞在中に私たちは、最初で最後のカンガルーステーキとテールスープを味わった。
あのころは常にこういった新しいことを経験していたが、日々の雑事は繰り返され、私たちの生活も知らぬ間に落ち着き始めていった。
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