Japan Australia Information Link Media パースエクスプレス

Barefoot in the Creek

 

 子供は3人いた。5才のマージェリーと2才のメアリー、そして7才の私だった。行く先が容易でないことは予測していたのにも関わらず両親が移住を決めたのは、私たち子供のためを思ってのことだった。母は12年前に親戚の忠告を無視して父と結婚し、お互いに信頼し合って生涯を添い遂げた。父がロンドンで開催されていたウェムブリーの博覧会に行ったとき、西オーストラリアのパビリオンを見学した。魅力的な言葉を連ねて集団開拓計画を宣伝するパンフレットを持ち帰り、父は母に恐る恐る話を持ち出した。
 「どうだろう、オーストラリアに行くのは」妻であり母である生活に満足している母は、驚きの余り、とっさに拒絶の言葉を口にした。

「オーストラリア!何だってそんなところに行くんです」しばらくの間、両親はオーストラリア行きのことをじっくり話し合った。父の勤務先の不安定な経営状態、失業した人々の絶望的な生活状況に両親は不安を抱いていた。最終的には、オーストラリアに行くことが子供たちの将来のためになるかどうかが話し合いの大きな焦点となった。オーストラリアに行けば独立して、ましな生活が送れるであろうと。両親は不安と期待の混ざり合った矛盾した気持ちで申し込み、それが受理されると友人や親類にオーストラリア行きを知らせ、準備を始めた。限られた荷物を作り、送別会が催された。そして1927年1月に英国郵便船オトラント号に乗船し、予定通り28日後に船はフリーマントルに到着した。