Vol.192/2014/01
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《4×5(フォー・バイ・ファイブ)カメラ》はこんな形をしている。昔を知っている人なら、学校などで記念撮影をするとき、写真屋さんが使っているのを見たことがあることだろう〈TOYOFIELD のHPから引用〉。
《軍政下で生きる人びとを記録する》−その思いで20年以上、現場通いを続けた。その思いがプツンと切れてしまった。中米のエルサルバドルで写真を撮り続けていた時、常にその思いが胸にあったのに。東南アジアのビルマ(ミャンマー)で写真を撮ったり、現地の人びとに声をかける際にも、そのことを忘れたことはなかったのに。実は、そのビルマ(ミャンマー)に初めて足を踏み入れた1993年5月、頭の隅には、次の取材先のアフリカがあった。アフリカの大国ナイジェリアでは当時、オバチャ大統領による軍事政権が、先住民族オゴニ民族出身で、小説家兼環境活動家のケン・サロ=ウィワを逮捕・投獄していた。
その頃の私は、南北アメリカ(大陸)・東南アジア・アフリカという世界の三大陸を結んで、人びとの抵抗の有様を自分の目で見、その姿を記録してたいという、無茶な計画を立てていた。だが、夢を夢で簡単に終わらせるわけにはいかない。まず動かねば、と写真を始めたのだった。ところが、現実問題として、人は喰っていかねばならない。生計を営まなければならないという厳しい現実があった。そこで手っ取り早く、写真の技術を磨くことを思い立ったのだ。世界を回りながら、日本の出版・雑誌社に各地からレポートを送って、とりあえずの生活費を稼いでしのごうと。でも、写真は全くの素人だった。そこで、フォトジャーナリズムの本場である(と当時は思っていた)米国で、写真を勉強することにした。
写真を学んでいく過程で、忘れることができない事柄がいくつかある。