Vol.168/2012/01
|
日本国内では少数となる離島や山村の人たちは、多民族で成り立つオーストラリアにおいての日本人コミュニティに重ね合わせられるのではないだろうか。生まれ育った土地で、または移住先で、よりよい生活を模索するのは誰しもが望むことである。連載『それでも生きる』の第2部として、「魚島の挑戦 離島と山村と憲法と」を3連載にてお届けする。
港の周囲が魚島の中心 |
四国からも本州からも20キロ離れた瀬戸内海・燧灘に浮かぶ愛媛県の旧魚島村は、魚島と高井神島という2つの島(計3.17平方キロ)に250人が住んでいる。隣町から高速船で1時間かかる離島中の離島だが、都市からのIターンが人口の1割を占め、全戸にCATV回線が引かれ、上水は海水淡水化装置でまかなっている。何より、下水道普及率100%を達成し、全村水洗便所化を果たした全国でも珍しい村である。
造船所がひしめく広島県因島市から1日4便の高速船に乗ると約1時間で魚島の港に到着する。港には手押し車を押した人たちがぞろぞろと集まり、船から荷物を運び出す。車が走る道は、港周辺と島の周回道路(約6キロ)しかない。手押し車は島民のマイカーなのだ。
海岸沿いには、開発センター(公民館)、漁協、町営住宅、診療所……といった鉄筋コンクリートのビルが並ぶ。それらの公共施設のビルの裏は、幅1メートルもない路地が幾本も斜面をのぼり、その坂道に面して住宅が軒を連ねる。ネコの額ほどの斜面に、島の人口のほとんどが集中している。
下水道が整備されるまでは、月に1度、住民が便所からバケツで糞尿を汲み上げて、坂道を台車を押して港のタンクまで運んだ。
「全身が臭くなるからすぐお風呂にはいらないといけん。においがいやだからって、夜のうちに作業する人もおった。昔は炊事の水も井戸から担いでおった」「水道と下水道は悲願だった。それができたから年寄りでも住めるんじゃ」……島の女性たちは語る。
下水道は1989年から93年にかけ、5億円かけて整備した。人口250人で割ると1人あたり約200万円の事業費だ。「都会以上に快適な生活環境を作れば過疎をくい止められるのではないか」という強い期待があったから、衛生環境の改善に多額の資金と労力を投入してきたという。
「昭和30年代に離島振興の一環で生活環境の現地調査があって、稲葉(峯雄)先生の衛生教育を受けた。環境衛生と福祉の基本を先生から学んだ。『清潔な島づくり』をすすめたのは先生の影響が非常に大きい」
魚島村の最後の村長をつとめた佐伯真登(1932年生まれ)は語る。