Vol.168/2012/01
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台車は自家用車がわり |
港の裏は路地に民家が密集 |
魚島の環境衛生の取り組みに影響をあたえた稲葉峯雄は、1932年、愛媛県狩江村(現在の西予市)の農家に生まれ、沖縄の宮古島で終戦をむかえる。沖縄本島の捕虜収容所で親しくなった米軍の黒人兵に、「お袋が百姓しながら待ってる。日本では百姓というのは自慢できる仕事じゃない」とつぶやくと、「土を耕して国を切りひらいてきたのは農民じゃないか。君たちは8月15日まで天皇のために戦った。天皇が戦争をやめると言うから君たちは捕虜になったんだ。君たちが負けたんじゃない。国は負けたが、君たちは敗者じゃない」と痛いほど手を握りしめた。
「陛下のために死ぬ」という価値観のもと、紙切れ同然に扱われてきたから、黒人兵が敵である自分を「人間」として扱ってくれたのが驚きだった。「民主主義」や「平等」を身をもって教えてくれたこの出会いが、稲葉にとっての「人間宣言」だった。だから、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」「すべて国民は、個人として尊重される」と説く日本国憲法を初めて読んだときは日本人の「人間宣言」だと思えた。
故郷に戻ると、農業のかたわら青年団運動に身を投じる。戦後の青年団は日常生活の課題を学びあう「共同学習」を重視していた。高等小学校しか出ていない稲葉は社会の現実を知ろうと、46年に創刊されたばかりの岩波書店の「世界」をむさぼり読んだ。
51年4月の初の統一地方選挙では、稲葉たちの青年団は、社会党などが推した久松定武を知事選で応援し当選させる。1年後、知事の特命で県庁の広報文化課「僻地文化対策」の担当になった。山村や離島を訪ねて社会教育映画などを上映し、住民と酒をくみかわして話し込んだ。 「庶民の代表」である知事に、最末端の住民の声を届けようとの思いからだった。
「日本人の人間宣言」である憲法の理念は、貧しい地域にこそもたらされるべきだと稲葉は信じた。だから、「離島中の離島」であり愛媛県の「最僻地」である魚島には、何度も足を運んだ。そこで親交を結んだのが、魚島村の青年団のリーダーをつとめる佐伯真登だった。
(続く)
藤井 満
1966年東京生まれ。新聞記者として、静岡・大阪・京都・愛媛・島根・石川に勤務。著書に「ニカラグアを歩くー革命と内戦の今昔」(1997年)、「石鎚を守った男」(2006年)、「消える村 生き残るムラ」(2006年)。