Vol.167/2011/12
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最後に
3.11、私は東京にいた。地震直後に一度だけ電話が通じた茨城の実家とは、13日まで連絡が取れずにいた。その間、東北のニュースの陰になり茨城のことが全く伝わらない。不安が高まった。家族の無事を確認したのち、14日に帰省する。津波が襲った沿岸部や、崩れた家を目の当たりにし、これまで顧みることのなかった、故郷を強く意識するようになった。
その後、避難が進む福島で、人のいなくなった地域を見た。原発から20キロの退避圏は、私の実家から車で2時間弱の距離にある。それを見たときに、茨城もいずれ人が住めなくなるのではないかと本気で考えた。失われる前に、茨城がどういう所なのか知らなければいけないと思った。
茨城を歩いていると、「東北に比べたら、辛いなんて言っていられない」そう話す人に多く出会う。しかし、個人にとって被害は他と比較するものではなく、それぞれが傷を負っている。
震災後、反原発・推進それぞれの立場でものが語られている。TPPもそうだ。国のため、皆のため。議論の前提に生身の人間が見えないものには強い違和感を感じる。
大地震は、たった一日で沢山のことを変えてしまった。今こうして生きていることすら偶然ではないか。私は何故ここにいるのか。何を守らなければならないのか。
震災が残した問いかけを、私はいつまで忘れずにいられるのだろうか。
柴田 大輔
1980年茨城県生まれ。フォトジャーナリスト。中南米を旅した後、2006年よりコロンビアを中心に、エクアドル、ペルーで、先住民族や難民となった人々の日常・社会活動を取材し続ける。3.11以降は、故郷の茨城を記録している。