Vol..124/2008/5
「神や仏はどこにいる?」

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(善行をすれば、それにふさわしい見返りがあり・・・)というような「勧善懲悪」のメカニズムのうちに人間はいるわけではない。もし、そうだとすれば、決定権は100パーセント人間に属し、神にはなんの権威も残されていないことになる。善行を積めば神の恩寵を得、悪行を行えば神の罰を受けるというのがほんとうなら、神は人間によって操縦可能だということになる。
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幼い人々は善行が行われず、罪なき人が苦しむのを見ると、「神はいない」と判断する。人間の善性の最終的な保証者は神だと思う人は、人々が善良でないのを見るとき、神を信じるのを簡単に止めてしまう。「神はなぜ手ずから悪しき者を罰されないのか」「神はなぜ手ずから苦しむ者を救われないのか」。これは幼児の問いである。全知全能の神が世界のすみずみまでを統御し、人間は世界のありように何の責任もないことを願う幼児の問いである。

 



 




 

  「なぜあなたの神は、貧しい者たちの神でありながら、貧しき者を救われないのか?」。あるローマ人が古代の伝説的な賢者であるラビ・アキバにそう尋ねたことがあった。そのときラビはこう答えた。「私たちが地獄の責め苦をまぬかれることができるようにするために」。
 「人間の義務と責任を神が人間に代わって引き受けることはできないという神の不可能性をここまできっぱりと語った言葉は他にはありません。・・・・・。」
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 ユダヤ人の神は「救いのために顕現する」ものではなく、「すべての責任を一身に引き受けるような人間の全き成熟を求める」ものであるというねじれた論法をもってレヴィナスは・・・弁神論を語り終える。神が顕現しないという当の事実が、独力で善を行い、神の支援抜きで世界に正義をもたらしうるような人間を神が創造したことを証明している。「神が不在である」という当の事実が「神の遍在」を証明する。
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