そんな共有物はこれまで、自然のものだけでなく、共同の水浴び場や橋という形をとってきたこともある。個人や企業が、それら分割できない共有物を勝手に利用してしまうと、やがては自分ばかりでなく共同体が危機を迎えることになってしまう。共有物とは、その原理からいって消費財ではないのである。だからこそ、そこには自ずと、法律や規則では明文化することのできない遠慮や暗黙の了解があった。それは信頼や信用、或いはたしなみとも言い換えていい。その無言のルールこそが社会を支えてきた柱であった。
日本を始めとする先進諸国は近代化の過程で、村や家庭という小さな単位の共同体を失ってきた。消失してきたのは、人と人とのつながりだけではない。自然の産物を大切にしようという意識も弱くなってきたように思える。
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ほとんどの人が都市化生活を送るようになった今、否が応でも商品生活に巻き込まれてしまっている。山に行っても入園料が必要となり、海水浴に行っても入浜料を払い、さらに自然保護という名目で寄付金を求められる。
お金を払った対価として自然と向き合うようになってきた。そこでは自然とは誰にも所属していない人類の遺産だという意識が希薄となってしまっても仕方がない。さらにお金万能の風潮が幅を利かせている。
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