「『デジカメ』一考」

 一方、デジタルとは、基本的に<0>と<1>で成り立っている。でも、この<0>と<1>というのは自然界では存在していないもの。例えば、リンゴ0個なんてのは、あり得ない。リンゴ1個、ってのも、人間が便宜的に「1個」って呼んだだけで、生活上「リンゴがある」ということだけだ。この数字<1>というのは頭の中だけにある、抽象的な考えである。
 「デジカメ」では、<0>や<1>という「無」から、写真イメージという「有」を生み出したような錯覚を起こさせる。それは、これまでの単なる化学変化というのとは意味合いが全く違う。どういうことかというと、フィルムカメラという物質から生み出された映像は、時間が経つにつれ、実体が消滅していくという前提がある。いわば、寿命があるのだ。
 それに反して、デジタルカメラから生み出された映像は、寿命がない。<0>と<1>のコピーをしていく限りは、半永久的に消えることはないのだ。
 私が思うに、ヒトは、寿命あるモノに対してはかなさを感じたり、感情移入するものだと思う。

いつかは自分自身も消えてなくなるものだし、あるいは、自分という存在が消え去る前に、自分の身の回りに変化が起こり、親しい人やいとおしい物体がいつ消失するかも知れない。だからこそ、それらのモノに愛着を持つものだろう。そこに存在のはかなさや尊さを感じるのだろう。だからこそ、その消え去るものを、はかなさを大切にしたいと思っている。
 だが、「デジカメ」は、イメージとして、そのはかなさとは全く相容れない存在を生み出す。記録媒体が劣化しない限り、半永久的なコピー的なものを生み出すからだ。
 「デジカメ」は、おそらく記録媒体としては、非常に優秀な機器。だから、私も使っている。命を持たないが命のイメージを撮し込むことのできるもの。なにか物足りない、というより、足り過ぎるのである。
 そんなことを考えていると、「デジカメ」にもう一つの違った属性があることに気づいた。(つづく)

 

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