Japan Australia Information Link Media パースエクスプレス

フォトジャーナリスト宇田有三氏による衝撃ルポ

On The Road by.Yuzo Uda

Vol.199/2014/08


「抗いの彷徨(9)—上」



 最前線に「行く」と答えてしまった1997年7月、ビルマの山奥に入った時のことを思い出す。軍事政権下の国軍によって焼き払われた村々を、カレンのゲリラ兵士11人の護衛を受けて訪ね歩いていた。激しい雨のジャングルを歩き続け、ある村にたどり着いた。そこでひと息つき、全員がゴロンと寝っ転がり、ひと休みすることになった。

 半時間ほど経った頃、村の女性がひとり、まさに形相という顔つきで何やら叫びながら、我々に向かって走ってきた。休憩していた11人の護衛兵士たち全員、一斉に素早く立ち上がった。急いで逃げるのだ、そう直感した。慌てて雨露のけぶる山の中に逃げ込み、三手に別れて、草むらの中にしゃがみ込んだ。

 すぐ近くをビルマ国軍が動き回っているという知らせだった。その数、300人以上だという。11人対300人では、ゲリラ戦も何も、戦闘にならない。こちらは逃げるしかない。

 ちょうど5日前、ジャングルに入った初日のこと、護衛のカレン兵の一人が無線機を私の目の前に差し出した。ガーガーと騒音のような音をたてる無線機に、かすかに言葉が交じる声が聴き取れる。

 「ほら、ビルマ軍が交信しているんだよ。『今日、外国人がひとり入ったぞ』と。あなたのことだよ。さ、これから奴らに捕まらないように動かないと…」

 山の中でしゃがみ込んだ私の前には、青々とした雑草が生い茂っていた。名の知らぬ長い葉の上で、名の知らぬ虫が動き回っている。伸びきった細長い葉の先に米粒ほどの虫が足を動かしている。地面の各所にも名の知らぬ虫が、濁った色の小石や朽ちた枝の間を行き来している。もし、ビルマ国軍に見つかり捕らえられたらどうなるのだろうか。そう思うと、緊張と不安で胃の奥が収縮していた。過敏になった聴覚が、森の中に谺する虫の音や鳥の鳴き声をいつも以上に捉えて、頭の中でガンガン響く。

 5メートルほど離れたところで、緊張した顔を崩さない護衛のカレン兵士と目が合う。自動小銃を構えたまま中腰で微動だにせずである。人差し指を唇に当てて、静かに、と合図してくる。目と目で話を続ける。「動くな。音を立てるな。そのままでいろ」「あとどのくらい」「わからない」。

 静寂の中、しゃがみ込んだ人間たちの息の音だけが不自然に伝わってくる。目の前20センチのところで我が物顔で動き回る虫の自由を羨ましく思う。無慈悲な人間の一足によって無残にも踏み殺されるかも知れない虫たちが、今は自由だ。

 風が吹く。ザワザワと葉が擦れ合う音がする。ああ来なければ良かった。追い詰められて本性が出た。だからこそ、帰るところのある我が身を却って忌々しく思った。

 まさに、その時、時間が止まっていた。恐怖におののいて、ただひたすらビルマ国軍が通り過ぎるのを願っていた。中途半端にしゃがみ込んだ姿勢で身体を踏ん張り続ける。目にしみ込む汗で涙が流れ出る。ぬぐってもぬぐっても流れ出る。緑の葉っぱの鮮やかさと虫の動きは、その時、脳裏に刻み込まれた。それもまた、戦場の現実でもあった。

(続く)