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フォトジャーナリスト宇田有三氏による衝撃ルポ

On The Road by.Yuzo Uda
Vol.179/2012/12

「ビルマ(ミャンマー)の「ロヒンジャ問題」を手がかりにして(4)」


漁村にはマレー系のムスリム人、パシューの人びとが暮らす

ビルマ(ミャンマー)最北のカチン州では毎年1月半ば、年に1度のカチン族(ジンポー族)の祭り「マノウ祭」が行われる。

〈ビルマ〉に政治的な意味づけ

植民者英国からの独立を闘った1930年代のビルマの独立の志士たちは、カチン民族・シャン民族・カレン民族など、ビルマ国内に暮らす諸民族を全て含めた統一国家を示す意味で「ビルマ」という語を使った。つまり、彼らはここで、政治的には中立であった「ビルマ」という単語に「諸民族を含めた一つの国民」という意味を「付け加え」た。

〈ミャンマー〉に政治的な意味づけ

 ビルマは1948年に英国から独立する。 その前年、1947年にできた憲法は『ミャンマー連邦=Pyihtaunsu Myanma Naingan』であり、「ミャンマー」という言葉を(もちろん文語なので)使っている。
 1962年、ネウィン将軍がクーデターを起こし、この時からビルマは軍事政権が始まった。その後、形だけの民政下で1974年、新しい憲法が作られる。その1974年憲法では、これも文書であるので、『ミャンマー連邦社会主義共和国=Pyihtaunsu Hsoshelit Thanmata Myanma Nainganto 』とした。日本ではこの憲法を「日本語」で『ビルマ連邦』『ビルマ連邦社会主義共和国』と表記した。


 1988年、ビルマではネウィン将軍によるビルマ式社会主義が行き詰まり、大規模な民主化デモが起った。この時、ビルマ国軍がクーデターを起こし、国内の騒乱状態を収集するという理由で、あくまでも「暫定政権」という意味で、「国家法秩序回復評議会(=SLORC:State Law and Order Restoration Council)」と名乗った。
 翌1989年「国家法秩序回復評議会」は、対外的な「英語呼称」を「ビルマ」から「ミャンマー」へと変更した。「国家法秩序回復評議会」はこの時、1930年代の独立の志士たちが意味づけしたこととは反対のことを主張した。
 つまり、「ビルマ」という語は「ビルマ族」だけを意味し、「ミャンマー」は「ビルマ族を含む諸民族全てを含む」言葉として適当であるとしたのだ。
  〈ビルマ〉 と 〈ミャンマー〉 という単語に、どのように意味づけをするのかは歴史的な文脈を無視して語ることはできない。この場合も、1930年代の独立の志士と1989年のクーデターを起こした軍部のどちらの主張が、より正しいかは判断できない。